狛江市域の大部分は、多摩川の河岸段丘上にあたり、段丘崖下から湧き出る水と多摩川、野川などの河川の幸に恵まれた、人々が生活し易い環境の良い地域でした。
 市内各所には、今から約1万数千年以上前の旧石器時代から江戸時代におよぶ遺跡が68ヶ所も確認されています。

■ 旧石器時代(紀元前約10,000年以上前)

 狛江市内では旧石器時代の様子はよく分かっていませんが、弁財天池遺跡の発掘調査では、旧石器時代後期の槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)、ナイフ型石器、細石刃(さいせきじん)などの石器が出土しています。この時代は一定の場所に定着して生活するというよりも、自然の恵みを追って移動を続ける移動性に富んだ生活が営まれており、土器もまだ使われていません。

■ 縄文時代(紀元前約10,000年〜紀元前約300年頃)

 紀元前1万年前頃、それまで永く続いた氷河期が終わり、日本列島全体が次第に温暖化します。温暖化に伴って森林が広がり、そこに住む動植物の数も種類も増え、人々が利用できる自然資源も急速に増加します。加えて、人々は土器の発明によって食物を煮炊きすることができるようになり、食物資源をより有効に活用できるようになりました。このようななか、人々は次第に一定の場所に定着しムラを作って生活するようになります。その結果、ムラの跡地には竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)が残されるようになります。
 狛江市内では、寺前東遺跡で発見された縄文前期(約7,500年前)の住居跡がもっとも古いムラの跡です。続く中期(約4,500年前)には、弁財天池の湧水を取り囲むようにして50軒以上の竪穴住居からなる集落跡が残されています。しかし、中期末から後期には気候が一時寒冷化し、これまで営まれていたムラが急速に衰退します。弁財天池遺跡・和泉駄倉遺跡ではそのような時期に構築された柄鏡形敷石住居跡(えかがみがたしきいしじゅうきょあと)が発見されているほか、圦上遺跡では後期・晩期の住居跡、後期の墓跡、石剣(せっけん)・岩版(がんばん)・土偶(どぐう)・土製勾玉(まがたま)といった呪術色の濃い遺物が見つかっています。

■ 弥生時代(紀元前約300年頃〜3世紀頃)

 弥生時代のはじめに中国大陸・朝鮮半島から北九州に伝わった稲作農耕、金属器の製作・使用技術は、その後急速に西日本一帯に広がりました。稲作の開始により人々は共同で農作業に取り組み、開墾技術や鉄製品の製作技術を掌握した指導者的な人物が、ムラを治める権力者となっていきます。関東地方にも中期の半ばまでには稲作技術が伝わったと考えられています。
 狛江市内では、後期に入ってから、多摩川の低地を望む台地の縁に集落が営まれるようになります。これまでの調査では、古屋敷・相之原遺跡、矢崎山遺跡、和泉駄倉遺跡などで集落跡が見つかっています。この時期のムラは大小さまざまな大きさの住居が入り混じり構成されていました。また、弁財天池遺跡で見つかった方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)は18m四方を囲んだ墓跡で、その規模や銅釧(どうくしろ)・鉄釧(てつくしろ)・鉄槍(てつやり)といった優れた副葬品(ふくそうひん)から考えて、多摩川中流域において古墳時代に続くような、突出した勢力が存在したことを物語っています。

■ 古墳時代(4世紀〜7世紀)

 河内平野を中心に発展した畿内王権(きないおうけん)の勢力が、次第に列島各地に広がっていく時代です。前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)という日本独自のかたちを呈した墓をはじめとして、古墳がさかんに作られる時代であり、古墳の広がりが畿内王権との何らかの関わりを示すものと考えられています。
 狛江市域では、古墳時代中期にあたる5世紀半ばから後期の6世紀半ば頃にかけて「狛江百塚」と呼ばれるほど多くの古墳が構築されました。現存するものは、兜塚古墳、経塚古墳、土屋塚古墳など13基ほどになってしまいましたが、およそ70基ほどの古墳が存在したと考えられています。そのほとんどは円墳で、この地域の有力な豪族層が構築したものと考えられます。そのなかで中心的な位置を占めるのは亀塚古墳で、帆立貝形の前方後円墳といった特徴的なかたちであること、銅鏡、太刀、馬具、管玉、ガラス玉といった豊富な副葬品などから、畿内王権との直接的な関わりが注目されます。
 この時代の集落は、和泉遺跡、古屋敷・相之原遺跡、圦上遺跡をはじめとして、市内のいたるところで発見されます。なかでも和泉遺跡からは、南関東地方における古墳時代中期の土師器が初めて見つかり、標準資料とされたため、遺跡名から「和泉式土器」と命名されています。古墳時代後期(6・7世紀)以降、古墳はほとんど作られなくなってしまいますが、集落は多摩川・野川を眼下に望む台地の縁を中心に営まれ、これまでに数多くの住居跡が見つかっています。この頃の竪穴住居には、方形に掘り窪められた住居のうち、一辺の壁面に粘土によってカマドが作りつけられるようになります。

■ 奈良・平安時代(8世紀〜12世紀)

 大化の改新により、公地公民を基礎とする律令(りつりょう)制度が整備されると、地方制度は国―郡―里(郷)と整備されます。現在の東京都を中心に埼玉・神奈川の一部を含む広大な地域が当時の「武蔵国」にあたりますが、現在の府中市に武蔵国の国庁(国府)が置かれ、やがてその北側に国分寺・国分尼寺が建立されます。武蔵国分寺跡から出土した瓦のなかには瓦の献上地域を示す刻印が押されますが、そのなかに「狛江」の文字が認められることから、この頃にはすでに「狛江」の地名が存在したことが分かります。また、平安時代の始め頃に編纂された百科事典である『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』という文献のなかに「武蔵国多磨郡狛江郷」の記載が見られるようになります。
 この時期の集落は、古墳時代から引き続き台地の縁近くに広く営まれています。住居のほとんどはこれまで同様、地面を掘り窪めた竪穴住居ですが、ムラの中心には地面から柱で建ち、床を貼った掘立柱建物も残されるようになります。久保・前原遺跡では大型の住居跡から当時の役人が身に付けた帯飾りが、古屋敷遺跡では硯が出土したほか、小原遺跡では墨で文字が書かれた墨書土器が見つかっています。


■ 中世(12世紀末〜16世紀)

 源頼朝は建久3年(1192)に征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開きました。この頃の市域は、武蔵七党のひとつである西党から分かれた狛江氏の勢力下にあったと思われます。狛江氏は、この付近一帯が古代以来、狛江郷と呼ばれていたことからその名をとった武士で、調布市佐須町付近に居館があったと伝えられています。
 続く戦国時代には小田原の北条氏の支配下となり,永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」には、江戸衆太田新六郎(太田道灌の曽孫)の知行として、「駒井本郷」の名がみられることから、付近に集落があったことが窺えます。
 中世の市域については残されている文献史料が少なくよく分かっていませんが、市内のいたるところに板碑(中世に造られた秩父青石を加工した供養塔)が残されていること、圦上遺跡、箕和田・北久保遺跡、田中・寺前遺跡、和泉遺跡、古屋敷・相之原遺跡などで地下式坑(地面に竪穴を掘りその下にさらに横方向に掘り込み墓穴としたもの)や田中・寺前遺跡、箕和田・北久保遺跡などで土壙墓(どこうぼ)が見つかっていることから、すでに江戸時代の村に近いかたちで生活が営まれていたのでしょう。


■ 近世(17世紀〜19世紀)

 慶長8年(1603)、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開きました。徳川家康はこれに先立つ天正18年(1590)には関東に入国し、江戸を居城と定めていました。当時の狛江市域はおおかた徳川氏の直轄地(天領)になったと思われますが、天正19年には、和泉村の一部が旗本石谷氏に与えられ、石谷氏は泉竜寺の門前辺りに屋敷を構えました。その後、寛永10年(1633)には和泉村と猪方村の一部、岩戸村が彦根藩主井伊氏に与えられるなど、市域は江戸時代を通じて代官(天領)、大名、旗本等の支配下にありました。
 江戸時代の市域は、和泉村、猪方村、岩戸村、駒井村、覚東村、小足立村の6ヶ村から成り、主要な産業は農業で、江戸の近郊農村として発展しました。用水は、六郷用水や野川、泉竜寺弁財天池の湧水等が利用されていました。六郷用水は、多摩川の水を五本松の上流で取り込み、現在の市役所の裏で野川と合流させて、世田谷・大田の村々へ送った全長約23kmに及ぶ灌漑用水路で、慶長2年(1597)から掘削工事が始められ、慶長14年に完成しました。以来、市域の和泉村、猪方村、岩戸村をはじめとして世田谷・太田の村々の水田をうるおしました。
 文化・文政(1804〜1830)頃、各村の戸数は、和泉村120戸、猪方村42戸、岩戸村50戸、駒井村30戸、覚東村19戸、小足立村29戸で、市域の総数は290戸を数えます。
 江戸時代の地誌『江戸名所図会』『武蔵名勝図会』には、泉竜寺や弁財天池、登戸の渡しなどが描かれており、江戸時代の狛江地域の姿を知る上で大変参考になります。また、狛江市立古民家園(愛称:むいから民家園)に移築・復元された荒井家住宅主屋も、江戸時代に建てられた住宅や当時の生活を知る上で大変貴重な文化財です。

■ 現代(19世紀後半〜21世紀)

 慶応3年(1867)の大政奉還により江戸幕府は滅亡し、翌年、江戸を東京と改称し、9月には年号を明治と改めました。
 明治5年(1872)に市域は神奈川県に属するようになり、11年に多摩郡が西・南・北の三郡に分けられた際には、北多摩郡に属しました。
 明治5年、学制が定められると、狛江でも翌6年には泉竜寺の建物を利用して観聚(かんしゅう)学舎という小学校が作られました。10年代に入ると自由民権運動が盛んとなり、狛江でも交潤講益社などの結社ができたり、自治改進党の名簿に名を連ねる民権家が生まれています。
 明治22年4月には町村制の施行により、和泉村、猪方村、岩戸村、駒井村、覚東村、小足立村の6ヶ村が合併し、狛江村が誕生しました。当時の人口は2,207人でした。明治26年4月には三多摩郡が神奈川県から東京都に編入され、45年には稲田村宿河原のうち多摩川以北を編入しました。
 大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、3人の方が市外で亡くなっていますが、市内ではほとんど被害はなく、土蔵の壁が崩れる程度ですみました。翌13年には、江戸時代に多摩川の洪水により流出した万葉歌碑が現在地に再建され、除幕式が行われました。
 昭和2年(1927)4月、小田急線が開通し、和泉多摩川駅が、6月には狛江駅が開業し、都心との交通が大変便利になりました。
昭和16年には太平洋戦争が始まり、18年には東京都制が施行され、東京府から東京都となりました。20年5月25日の空襲では狛江国民学校と付近の民家が焼失しました。
 戦後、27年11月10日に町制を施行し、狛江町となりました。翌28年には多摩水道橋ができ、長い間、親しまれてきた登戸の渡しがなくなりました。その後、東京のベッドタウンとして発展し、35年には21,485人であった人口が、45年には57,468人と10年間で約2.7倍に急増しました。45年10月1日には市制を施行し、狛江市が誕生しました。