昭和二十年五月二十五日の夜、それは狛江村に住む人々にとって悪夢の一夜であった。
昭和二十年五月二十五日夜半、B29が狛江に焼夷弾の雨を降らせた。
みんなを防空壕から出した。もう、あたりは一面火の海だった。
毎日のように空襲警報が発令され米軍機が上空を通っていく。
今の西河原公民館の先辺りで多摩川の水を引き入れた六郷用水は、灌漑(かんがい)用水として、いちょう通り、一の橋を通り、世田谷通りに沿って流れていた。
五月二十五日の夜、岩戸橋付近(岩戸北三丁目)にもB29の焼夷弾が投下された。
教員住宅 木造平屋建の古い建物が焼けた学校の東側にあって、四世帯の人が住んでいた。
空の要塞B29重爆撃機が、初めて東京の空に姿を現したのは、昭和十九年十一月一日のことだった。
農協の前身である産業組合が今の場所にできると間もなく日中戦争が始まった。
軍国日本は強いのだ、戦争に負けない国と称して太平洋戦争開始後、銃後の護りは固く老若男女子どもまでが苦難にたえながら戦勝の報道に胸をはって喜んでいた。
多摩川の対岸から宿河原堰堤、橋本木工所のあたりまで火の海になった。
畑には数十発の焼夷弾がめり込んでいて、油が吹き出て生ゴムが炎を発し、収穫真近な麦を焦がしていて異様な臭いがした。