昭和30年代後半までの狛江の町民は、飲料水を自家の井戸水に頼っていた。
急激な都市化の進行は、狛江の恵まれた自然環境をいつの間にか悪化させていた。
この川は、つい30年ほど前までは、飲料水溜概用水として人々の生活に密着し、また所によってはわさび畑を育み、アユやウナギなどの漁の場でもあった。
市制施行の翌年の昭和46年頃、多摩川団地は建設されていたが、西河原の一帯は住宅も少なく、梨畑と水田地帯が広がり、まだ、のどかな田園風景が残されていた。
昭和30年代後半の急激なモータリゼーションの発達と並行し、小田急線沿線の開発も進み、運行電車数も年々増え、踏切の開放時間は50年頃のラッシュ時には1時間に10〜15分程度となった。
昭和54年、小田急線の立体化を考える懇談会で、建設省から「鉄道の立体化というのは、まちづくりがあって初めてなる」との意見が出された。
失業対策事業は戦後の失業者を救済する目的で、最初、国の事業として始まり、狛江町でも、昭和29年に建設課を新設し、失業者を受け入れて失業対策事業を開始した。
都営狛江アパートの所在地は、以前は「国際電気」という会社の敷地であった。
土地の高騰が続く中で、狛江市内でも数え切れないほどの中高層マンションの建設が進んでいる。
狛江市の西端、調布市と境を接するところに「千町耕地(せんちょうこうち)」と呼ばれる一面の田園地帯があった。
狛江市が医師会と協定して正式に休日診療を始めたのは昭和51年1月1日のことである。
慈恵第三病院は、昭和24年に東京重機から土地を買収して、翌25年7月19日に東京慈恵会医科大学附属第三分院として開設された。
伝染病患者を収容、治療するための施設として平和病院設立の話力特ち上がったのは、昭和27年のことである。
昭和30年頃から狛江町にも、多くの人が移り住むようになった。
狛江町のごみ処理は、昭和34年当時 は、日雇いの臨時織員が3人で、自転車にリヤカーを連結させて、各家庭の前の道路端に置いてあるコンクリート製のごみ箱から収集していた。
公害関連の記事がマスコミをにぎわせていた昭和51年12月、武蔵調布保健所から市に対し、市民から黄色い井戸水の検査依頼があり、検査の結果、異状なので市の立ち会いを求めたいとの連絡があった。
昭和23年の消防組織法の施行以来、多摩地区の各市町村では単独もしくは組合形式によって消防事務を行ってきた。
狛江市消防団のルーツは、明治28年12月に創設された狛江村消防組にある。
佐藤病院の火災は、焼失面積が1,000平方メートルを超え、焼死者7人を出す大惨事であった。
昭和49年9月1日、「狛江市猪方地先の多摩川堤防が決壊」の一報がマスコミを通じて日本全国に伝えられた。
生まれながらにして耳の不自由な人は、言葉も不自由で、電話を通しての会話や意思疎通はできない。
全国初の試みとして、狛江市に聴覚障害者のための災害情報伝達システムが導入されたのは、昭和60年9月1日の防災の日である。
市民待望の福祉会館が、多摩川を望む南下りの崖地に竣工したのは、昭和47年11月のことである。
上和泉学童保育所の入所申し込みが定員を大幅にオーバーすると心配されたのは、昭和53年度のことである。
昭和30年代の後半から全国各地で、特に都市部を中心に学童保育所開設の要望が高まり、文部省と厚生省とがカギっ子対策に取り組んでいた。
市立保育園で障害児保育を始めたのは、駄倉保育園で昭和51年5月からである。
狛江市における初めての保育園は、町の時代の昭和42年4月に開設した和泉保育園である。
昭和40年代に入って、日本人の平均寿命は70歳代に達し、急速に高齢化が進み、健康で働く意欲のある老人から就業機会を求める声が出始めた。
狛江に初めて福祉作業所が設置されたのは、昭和56年4月7日のことである。
昭和34年4月に国民年金法が成立し、36年4月から保険料の徴収と福祉年金の支給が始められた。
社会福祉法人・狛江市社会福祉協議会の前身は、昭和40年6月に発足した北多摩南部社会福祉協議会である。
市内ではいろいろな分野で、ボランティア活動が展開されている。
狛江市のコミュニティ施策がスタートしたのは、昭和52年に狛江市基本計画が策定されてからである。
昭和40年代の高度経済成長期は、狛江市もご多分にもれず人口急増の時期で、市民相互の連帯感や郷土意識のあり方に問題を投げかけていた。
狛江市の人口急増の中心は昭和33~44年にかけてである。
従前、校舎といえば木造であったが、昭和36年に三小の校舎増築が木造でなされたのを最後に、校舎の新・増改築は鉄筋コンクリート造りとなった。
都立高校への進学は、当時から学校群での通学区域があり、狛江市内の高校生は、神代、三鷹、立川、南多摩、千歳高校などに通っていた。
狛江市内には、古代豪族の墳墓である古墳が数多くあり、狛江古墳群と総称されており、都内でも有数の古墳群である。
現在の市役所敷地内(現駐車場付近)には、プレハブ造りのいずみ集会所が昭和51年10月31日まであり、この一室に図書室があった。これが狛江の図書館の始まりである。
狛江市の社会教育は、昭和30年代の人口増の頃から転換していった。
狛江市における大型店出店反対運動の最初は、昭和52年7月に出店計画が提出されたスーパーいなげやに対してであった。
昭和30年代半ばから、住宅建設の進行で、庭園樹や街路樹の需要力、激増し、農家の畑先に植えてあった植木は住宅の庭に植え込まれるなど、各農家は盛んに苗木を仕入れては植えつけ、また挿木など増殖に熱を入れていた。
昭和47年3月末、現在の東和泉1丁目クレスト狛江マンションと狛江市農協経済センターのところにあった狛江青果市場が閉場された。
昭和48年秋、突然として起こったオイルショックは、それまでの高度経済成長の流れを一変させ、国民の日常生活に大きな影響と不安を与えた。
都市化が進み、土と親しむ機会がますます遠のいていく現代。
30年代からの都市化とともに、大手会社による宅地開発が進み、各所で埋め立てが大規模に行われ、農地は住宅地に変わり、急激にその面積は減少していった。
奥秩父の笠取山に源を発する多摩川は、延々138キロメートルを流れ東京湾に注ぎ、その清らかな流れはかつては数多くの魚族を育み、流域の人々はさまざまな漁法で魚を捕っていたようである。
多摩川の花火は、大正11年頃に第1回花火大会が和泉多摩川観光協会によって開催されたのが始まりといわれている。
都市化の進展に伴い、住所が複雑な地番のため分かりにくく、郵便物等の遅配や誤配が多くなってきた。
昭和40年代の多摩地区は、人口の急増に伴い、小学校の新増築や保育園の新設、ごみ・し尿処理施設の整備などに追われ、その財政対策に苦慮していた。
戦後の各地方自治体は、戦争の痛手による行政の混乱とインフレの進行により、財政の窮乏の中にあった。
昭和30年代の地方自治体の計算事務は、ソロバンと手回しのタイガー計算機が主であり、課税の時期などは残業続きの状態であった。
昭和56年、新市庁舎が落成した。以前の庁舎を知っている市民の方も多いと思うが、木造二階建て(第一庁舎)と数棟のプレハブ造の建物であった。
狛江市(当時は町)と電研との間で、電研が所有する土地、建物などの固定資産の課税問題について裁判で争う時期があった。
急激な都市化が進み、ともすると市民同士のつながりや自分たちの住むまちを愛する心の薄れがいわれる中で、市民としての郷士愛し責任感を育み、市民意識の高揚を図るため、市民憲章を定めようという気運が高まっていた。
昭和45年3月に、地方自治の一部を改正する特例法、いわゆる三万都市法が成立し、狛江町は市制施行の実現に向け大きく動き始めた。
全国の自治体の多くが、その土地柄に応じた「市の木・市の花」を決めているが、狛江市でも、市の木にはイチョウ、市の花にはツツジを定めている。