新紙幣の肖像
 渋沢栄一と狛江

 大正11年春、玉川碑旧碑の拓本を見た羽場順承は一目見たいと狛江村猪方の旧地に訪れたが、洪水で流失して既になかったので村長の石井扇吉や郷土史家の石井正義などと図り、あちらこちらと掘ってみたが見付からなかった。そこで再建することになり大正11年7月、玉川猶興会を設立。数々の遺跡保存に実績のある渋沢栄一を顧問に迎えた。
 顧問になった渋沢栄一は大正11年9月24日に現地を視察し、同日、玉翠園で行われた玉川史跡講演会で「玉川碑と白河楽翁公」という演題で講演を行った。渋沢栄一も楽翁公を尊敬していたのである。
 渋沢栄一は、松平定信の人格と博愛の精神、特に清貧を強調し「玉川を正面に見る事の出来る此美しい自然の景勝、彼岸には鬱蒼たる樹木あり、而して下流の此岸には風光明媚なる此村荘あり、平素我が私淑する白河楽翁公のお話を此所で致すのは心から愉快なことであります。」「歴史は誠に大切なものである。歴史を知り歴史を残し、過去によりて偉人の功績を偲び、そこに文化の華と実を求める。これが私の歴史観であります。」などという言葉を残している。
 そして大正12年3月には、再建費用をおよそ5,000円と見積もり、自ら2,500円の寄付を行うと1行目に記入した勧進帳を財界人に回した。その結果、財界人から2,150円、村人などの会員から1,391円、合計6,041円の寄付を集めることができて、石碑は完成した。そして大正13年4月13日には除幕式が行われ、ここでも祝辞を述べている。やはり白河楽翁公の話であった。
 裏面に刻まれている碑陰記も渋沢栄一が書いたものである。
 その他、渋沢栄一と狛江との関係は、昭和2年の桃の節句にアメリカから日本に贈られてきた青い目の人形の受取式がある。このとき栄一は日本国際児童親善会会長として参列し、1万1,975体の青い目の人形を受け取り、全国の小学校や幼稚園に配布した。狛江尋常高等小学校に届けられた1体は、校庭で全校児童に披露されている。
 また、東京慈恵会医科大学附属第三病院と関連のある東京慈恵会でも、明治40年の創設以来昭和6年まで副会長として中心的な存在であって、大正12年の関東大震災で全てを失った大学と病院を立派に復興したり、発足当時の慈善病院としての精神は今も東京慈恵会医科大学附属第三病院につながっている。
 実業家として広く知られている渋沢栄一だが、東京都養育院や非行少年の矯正施設である井之頭学校の開設、江戸城常磐橋御門跡と橋の保存、北区西ヶ原の一里塚の保存など多方面で福祉、文化財の保護、学校教育の援助などを行っている。

 井上 孝
 (狛江市文化財専門委員)