人口約5万7千人、田畑は日を追うごとに潰されて宅地に変わっていった。そのため値上がりが続く地価の抑制を兼ねて、この年から地価公示制度が始まった。狛江駅から400メートル離れた和泉の宅地で1平方メートル5万円、和泉多摩川駅から1.6キロメートル離れた駒井で1平方メートル3万9千円だった。
 この年は丙午(ひのえうま)の前年に生まれた子どもが幼稚園の年中組に入る年でもあった。それに町内に3つの団地ができて間もないこともあって、幼稚園は狭き門、入園児を持つ保護者は、早朝から行列して入園受付の開始時間を待った。
 学校の教室不足も深刻だった。小中学校の新設が3校続いたあとだというのに、第六小学校の用地買収と、第四小学校、第五小学校、第二中学校、第一小学校の増改築があった。
 だから町役場は、もうすぐ市役所になるというのに、昭和25年に建てた木造庁舎を囲んでプレハブ庁舎がいくつも建っていた。学校建築に追われて町役場まで手が回らなかったのである。
 町の事業として学童保育所を始めたのもこの年である。そこには子どもの急増期としての活気があった。
 都立高校への進学は不便だった。狛江町が多摩学区だったため神代高校以外はみな遠く、やっと認められていた25群も、この年の入学試験から2つに分かれたため、26群の千歳丘高校と明正高校しか受けられなくなった。そこで狛江にも高校をという運動が急に高まり、年末には狛江高校をバラ園のあった現在地に作ろうという方向がほぼ定まった。
 多摩川河川敷にテニスコート4面とブランコ、滑り台、シーソーなど児童遊園施設ができたのもこの年の4月である。続いて少年用と成人用の野球場が2面できたが、昭和49年の水害で流されて今は野球場しかない。
 狛江駅南口広場が開通式を行ったのは一月だった。そのころ多摩川水道橋は渋滞が激しかったので、翌年には渋谷・向ヶ丘遊園間のバスが狛江駅南口広場で折り返すようになった。
 狛江通りの踏切も開かずの踏切だったから、車は世田谷通りまで続き、ラジオの交通情報ではいつも狛江三叉路の名が報じられていた。一方反対車線でも、市役所前を目前にバスから降りられない乗客がいらいらしていた。
 小田急線の急行も朝の上り以外は成城学園前を止まらなかったから、夕方など新宿から狛江まで来るのに40分も50分もかかった。だから急行に乗って登戸まで行って引き返す人がいたとみえ、狛江駅の改札口には、「登戸まで行って戻ってきた場合には往復料金をいただきます」という内容の張り紙がしてあった。

  井上  孝(狛江市文化財専門委員)