明治生まれの人たちから、バクメシ(丸麦の飯)の話を聞いたことがあります。バクメシは、大麦を脱穀、精白した後、丸麦のまま炊いたもので、オバクともいいました。丸麦は固いので、水に一晩つけてから気長に煮ます。囲炉裏に掛けた鍋で、半日近くもブツブツ炊きました。ブツブツ言う人を、「バクメシのようだ」などといったそうです。
 江戸時代のことわざ集『譬喩尽(たとえづくし)』には、「ぼやぼや者を麦飯たくやうな人じゃといふ ぼちぼちとにゆるゆへなり」とあって、麦飯炊くような人といえば、ぼやぼやした人、のろまをいうたとえになっています。
 「バクメシってのは、丸麦のままの麦ごはんでね、この丸麦だけってのは、覚えてからは食べてないけど。ヒキワリや押麦なんかが、使うのに間に合わないこともあって、そんな時には、ひいばあさん(祖母)が、『しようがねえ、きょうはバクメシにしておこう』なんてね、丸麦七分に米三分ぐらい少し入れてね。丸麦は食いにくいんだよねぇ。ぶつぶつして」。「自分でやったことないけど、丸麦は一晩つけておいて、おばあさん(姑)が炊いてくれましたよ」。駒井の明治三十年代生まれの夫妻の話です。
 丸麦を煮立ててえまし、水にさらしたエマシ麦を入れて炊くこともしました。主食としての大麦は、丸麦から碾割(ひきわ)り麦、押麦へと使い方も変わってきました。「秋になると、麦の搗き込みといって、水車に持ってって男衆(おとこし)が搗く。それを干しといて、女衆(おんなし)や年寄り夫婦が家で臼でひいたんですよ」。こうして作るヒキワリは、農閑期にまとめてひいておくこともありました。
 家によっても違いはありますが、狛江では大正十年ごろから、押麦が普及するようになりました。大正八年に軍隊に入った当時、軍隊では押麦の麦飯で、家ではヒキワリだったから、押麦が珍しかったと話す人もいました(駒井)。ヒキワリはコソッパイし、冷めるとポロポロになるけど、押麦はのめっこくて口当たりがいいから、つい食べ込んでしまうので、「身上ぶっつぶし」だなどとも言ったそうです。そんな押麦なので、お米は探すくらいしか入れなかったことも聞きました。
 米と麦(ヒキワリや押麦)の割合は、家や時代により、季節によっても違いますが、米三、麦七で炊くことが多く、半々というのは上等でした。「半分のご飯が食べたい」って、たとえたんだから、麦が半分ならいいほうだ、といいます。これが昭和三十年代ごろまでの、多くの農家に見られる日常の主食・麦飯で、米の飯は物日(ものび)などに限られていました。
 丸麦から石臼でひくヒキワリ、機械によるツブシともいう押麦へ、これは、女衆の労力が軽減されていく歩みでもありました。
 
  中島 惠子(狛江市文化財専門委員)