昭和19年3月から、中学3年生以上の学徒動員が通年実施になった。そこで成徳女子商業学校でも4年生全員、狛江の東京航空計器、新宿の藤倉ゴム、経堂の東京ベローの3カ所に分かれての工場勤務。仕事はいずれも軍需物資の生産である。そして週一回だけ登校することができたが、「大好きだった英語は、敵国語として(女学校では)学ぶことができなくなっていた」し、「教室のガラスは(爆風で飛び散らないよう)みなテープが貼られていた」
 狛江組は、朝は班ごとに「狛江駅前に集合、隊伍を組んで工場の門を入る。『かしらぁひだり!』と大きな声で号令を掛ける毎日」だった。
 工場に入るとかなり高度な仕事が待っていた。「烏口で書く製図のトレース……失敗ばかりで、同じ職場の方から『これでは消耗品艇身隊だね』といつもひやかされて二人は恐縮していた」技術研究部でも「何の統計になるのか訳もわからず、毎日ソロバンをはじき、少々飽き飽き」
 そのうちに「T工場で男子学生が事故で大怪我をしたといううわさが流れてきて、みなで心配した」こともあった。
 モノのない時代、なんといっても嬉しいのは食べ物だった。「食料難の時代、会社からいただいた大きなおむすびが印象に残っている」「給食のオニギリ(ほとんど唐黍)をヒーターの網に乗せて焼いたり」した。
 でも、「コーリャンのおにぎりは体質にあわず、とても困りました。それが原因かどうかわかりませんが、脚気になり工場を時々休みました」など、食生活はきびしかった。
 「先生が生徒の働き具合を見て廻る姿が窓から見えると、急いでフラスコを温めたり、ビーカーを振ったりして働いている振りを」しているところなど、やはり女学生である。
 11月になるといよいよ空襲が始まった。軍需工場はB29の爆撃目標だから、「空襲警報が出ると、近所のお寺に避難して機銃掃射の音に震えていた」
 やがて3月、卒業式といっても卒業証書をもらうだけ。「証書をいただくとすぐ、先生から、空襲警報が出ないうちにお帰りなさい」とのこと。この年は4年生も一年早めての繰り上げ卒業だった。その後も「戦局は厳しく、生活が困窮する中、進学しないものは引き続き工場に行かなければならなかった」
 8月15日には朝から重大放送があると聞かされていた。そこで全員「工場で終戦の放送を聞き」「体中の力が抜けて呆然としたと同時に、ああもう空襲がなくなるんだと、ほっとしたことも覚えています」と。そして「正午解散になり」次の日から工場は休みになった。

井上孝(狛江市文化財専門委員)