多摩川の河川敷は、戦後、主として民間企業に貸し付けられていたが、昭和三十九年に行われた東京オリンピック以後、国民すべてが自由に利用できるグランドや公園を造ろうとする機運が盛り上がり、昭和四十年十二月以後、河川敷の使用は公共のために使用する場合だけ許可を与えることになった。
 そこで狛江町では小田急線鉄橋下の河川敷に児童遊園と運動施設を造ろうと建設省に申請した。
 そして昭和四十二年三月初旬から陸上自衛隊施設部隊の手で整地工事が始まり、月末には完了、第一期工事に入った。シーソー三基、四人乗りブランコ一基、安全ブランコ三基、大型スベリ台一基、スベリ台一基、鉄棒一基、砂場だけだったが完成して同年八月十五日に開園した。
 第二期工事は、昭和四十四年十一月から始められた。面積四万八千平方メートルにブランコ、すべり台、ジャングルジム、鉄棒、シーソーなど七種類二十四基(翌年四月一日から使用開始)、テニスコート四面(地固めのため四月中旬から使用開始)使用料無料、町役場の許可を受けたものは和泉多摩川駅前にあった太陽スポーツ店に行くと用具を借りることができた。少年用と青年用の野球場二面だけはやや遅れて、完成したのは四十六年になってからだった。
 しかし河川敷のため雨が降り続くとグランドは水浸し。野球場のバックネットが川の流れをせき止めたり、万一流されて堤防破壊など二次災害を起こすといけないので、大雨警報が出たり急に水位が上昇すると、日曜であろうと夜間であろうと、町役場の担当職員には招集がかかって、バックネット二面をとりはずし、安全な場所に移さなければならなかった。少しでも行くのが遅れて水に浸(つ)かりはじめると、それがわずかな水と思えても流れは速く、足を取られる恐れがあった。また、浸水のために表土が流されると、その補修にも多額の費用がかかった。一年の間に三回も流された年があったという。
 一方、晴天が続くと表土が乾燥し、そのうえ風が吹こうものなら砂塵(さじん)を巻き上げて、近くの民家に迷惑がかかる。そういうときにも職員はグランドに行き、エンジンポンプを使って水を撒(ま)いたという。それも午前と午後の二回も撒くというから大変な仕事であった。しかし昭和四十七年頃、にがりを撒いて固(かた)めてからはその問題はなくなった。
 昭和四十九年九月一日に起きた多摩川水害の被害は大きかった。多摩川緑地公園にも多量の水が押し寄せて、川岸にあった十九棟の住宅とともに地盤ごとえぐりとられてしまった。
 そのため、昭和五十八年八月に、野球場二面だけはできたものの、児童遊園施設とテニスコートはついに復旧しなかった。
井上孝(狛江市文化財専門委員)