約200年前に書かれた『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』に出てくる泉龍寺弁財天池は昭和のはじめには1分間に9立方メートル、水温は夏冬を通して13度という水を一年を通して湧き出していた。だから夏は冷たく、冬は温かくて特に寒い日など湯気を立てていた。
 そしてこの水は清水川となって流れ出し流域の田んぼを潤(うるお)していた。特にこの水は日照りの夏も枯れることがなかったので、感謝の気持ちから、下流の村々では毎年水年貢(みずねんぐ)として収穫物の一部を泉龍寺に納めていた。
 また小田急線が開通してまもないころ四谷区教育会が池の南に50メートルプールを造って、夏には都会の子どもたちを泳がせた。冷たいことさえ我慢すれば、きれいな水を十分使えたし、季節はずれには釣堀にもできた。
 この池は小さい子どもにとってもよい遊び場だった。周囲の樹木がまだ閑散(かんさん)としていたから日当たりがよく、砂利道はめったに車が通らないので寝そべるのによかった。深さも子どもの腿くらい。その上、サワガニやイモリ、モエビ、ハヤ、アユ、ウナギなどがいたので、それらを網で捕っては遊んでいた。清水川は多摩川につながっているので、遡上してきた魚がここで行き止まって住み着くのである。
 特にこの池には、藻で巣をつくって卵を産むというムサシトミヨ(トゲウオ)がいたり、捕ってきたモエビはかき揚げにして食べることができた。
 水がきれいだったからカワニナもいた。だから夏になるとゲンジボタルが輝いて、幻想的(げんそうてき)な光を放った。
 池から流れ出したところに洗い場があった。農家の人たちは採れたばかりの野菜や洗濯物(せんたくもの)をリヤカーに積んでそこに持ってきては洗っていた。
 夏になり日照りが続いたとき、和泉の人たちが雨乞いをするのもこの池か多摩川だった。村の代表が大山に行っていただいてきた水をこの池に流しながら「さんげさんげ六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えてお祈りをするのである。
 島の中央には弁財天の祠(ほこら)がある。『江戸名所図会』にも出ている古いもので、元禄6年と刻まれている。その中には頭が人で、体が蛇の形をした弁財天が入っていたが、今はお寺に納めて代わりのものを入れてある。
 そのほか昭和7年に四谷区教育会が寄進した灯篭。宝暦二年にまわり地蔵尊の賽銭をもって架けられた石橋など、みな霊泉としての信仰の賜物(たまもの)である。
 いま弁財天池特別緑地保全地区の一部(弁財天池の東側)になっているところには松の葉という料亭があった。そこには堀った池があって水が湧き、中央には橋が架かっていて、一艘(いっそう)の舟が浮かんでいた。その澄んだ水の中にはアユやヒガイなどを飼っていて、それを客に釣らせたり、料理にして出していた。

井上  孝(狛江市文化財専門委員)