大正から昭和初期にかけての多摩川は水量が多く、水もきれいだった。だから流域には玉川水道(田園調布にあったが現在休止中)、渋谷水道(現砧下浄水所)、荒玉水道(現砧浄水場)、日本水道(狛江三中のところにあった)などの浄水場ができて、東京市周辺の町に給水していた。
 しかし昭和30年代になると、東京の人口が増えるにつれ、水の需要が多くなり、多摩川の水だけでは補いきれなくなった。そのうえ昭和32年に奥多摩湖ができてからは需要に見合った量だけを計画的に放水するため、羽村から下流の流れは極端に減り、昭和36年以降多摩川下流の浄水場から配水する城南地区では毎年春先になると水枯れによる断水が起こるようになった。
 特に昭和39年の夏は初夏の頃から雨が少なく、空梅雨も加わり、そのうえ上河原堰が水利権を楯(たて)に土嚢(どのう)を積み、わずかな水さえ二ヶ領用水に取り込んでしまったから下流への影響が大きく、宿河原まではまったく水が見られなくなってしまった。
 そのため釣り人の姿は見えず、夏草が生(お)い茂り、向こう岸まで歩いて渡れるようになった。また、木造(きづく)りだったボートは陸に上がったまま毎日強烈な太陽に照らされて乾燥し、隙間(すきま)ができ、再開時にはパテで隙間を埋めなければならなかったという。
 それほどの水不足だったから、東京23区では春先から給水制限を行っている。プールは使えず、水を使う仕事には大きな影響を及ぼし、東京砂漠(さばく)とまで言われていた。特に多摩川下流の浄水場から配水される城南地区の給水制限は厳しく、8月15日からは制限率50パーセントと強化され、一日5時間しか給水できないところもあった。
 その窮状(きゅうじょう)を救おうと、8月14日から武蔵野市、三鷹市、小金井市、国分寺町、国立町、立川市、府中市とともに狛江町でも、同年できたばかりの水道の節約を町民に呼びかけ、毎日五百トン、20日以降は千トンの水を狛江浄水場を通して23区に応援給水した。その頃の狛江町の水道は深さ百メートルからなる深井戸から汲み上げる地下水だったので枯れることなく、まだ余裕があったのである。
 昭和39年は東京オリンピックの年でもあった。だから選手村の水をはじめ、プールの水の確保や、選手の練習さえ心配されていた。そこで利根川から東京都へ水を送るための工事を急いだものの間に合いそうもなく、応急措置として荒川の水を東京都に引き入れることにした。
 幸い8月20日に集中豪雨があったことと、荒川からの工事が8月25日に完了し、通水できるようになったことで、やっと危機を免れることができ、8月31日をもって多摩地区からの応援給水が終わった。
 このとき都から狛江を含む五市三町に感謝状が贈られている。
  井上 孝(狛江市文化財専門委員)