小田急線開通のとき、はじめの計画では成城学園前の次は和泉多摩川まで駅を作らない予定だった。当時は多摩川がきれいで、釣りや川べりの散策など、自然を楽しむ都会人が多かったからである。
 電車が開通すると多摩川の砂利採りが盛んになって、堤防の上にはトロッコの線路が、堤防の下からは今駅の東口があるあたりまで本線の西側に貨物専用線があって、河原で掘ったばかりの砂利を貨物列車に積み、東北沢の砂利置場に運んで都心の需要に応えていた。
 一方村内にも砂利を商う者もいたし、戦後は多摩川べりにコンクリート工場ができて、U字溝や歩道の縁石等を造っていた。
 昭和九年に砂利の採掘規制が強化されると田圃の砂利に目が向けられ、今狛江高等学校の校舎が建っているところにも採掘機械が持ち込まれ、大きな砂利穴ができた。戦後、そこには淡水クラゲが発生したことがあったり、大きく囲ったばら線の中にたくさんのバラが植えられて、バラ園として無料で開放され、住民に親しまれていた。
 また、そのあたりの田圃にはウシガエルが、水路にはウナギがいたので、それらを捕って商売にしている者もいた。
 清冽(せいれつ)な多摩川の水は都会の人々を引き寄せた。四季を問わずボートが浮かび、夏になると林間学校に来た都会の児童たちを含めて泳ぐ姿が賑やかだった。戦後もいち早く川の家が造られ、泳ぐ姿を見下ろしながら堤防の上を、アイスキャンデー売りが自転車に旗を立て、荷台の木の箱にアイスキャンデーを入れ、鐘を鳴らしながら通ったのも、日々の食料さえ困っていた戦後の思い出の一つである。
 多摩川べりは水田と畑ばかりだったから電車の音はかなり遠くまで聞こえていた。朝学校に向かう高校生は鉄橋を渡る電車の音が聞こえると、「それ行け」とばかりに駅に走ったという。
 周辺の人口が増えるにつれ駅前にもちらほらと商店が立ちはじめた。はじめは青果物や鮮魚など食料品が中心だったが、昭和三十年代に入り、猪方・駒井方面が宅地化するにつれ駅前通り商店街を形成するようになった。駅から河原へ行く道ぞいには二軒の釣り道具屋を構えるほど多摩川には大勢の釣り人が訪れていた。
 玉泉寺は小田急線開通のとき境内がかなり狭くなってしまったが、永正元年(一五〇四年)に尊祐法印が開創した寺で、境内には古い墓石や地蔵などがあり、この寺の古さを物語っている。
 今もこの寺の十一面観音は多摩川三十三観音霊場第十九番として賑わっているが、本尊薬師如来は秘仏になっていて、寅年の春に開帳する。今年は寅年、開帳の年である。

井上孝(狛江市文化財専門委員)