昭和41年6月28日 野川の水害 その時私は

 前日から降り続いた雨で増水した野川は各所で水が溢(あふ)れ、夕方には岩戸橋でも堤防が決壊した。溢れた水は御台橋から一中北側、役場裏、農協東側、明静院下から第三小学校の間の低地一帯に流れ込み、多くの家屋が浸水したり田畑が冠水(かんすい)した。岩戸南郵便局近くのポストは上10㎝を残して水没したという。
 その頃の住宅は多くが平屋だったから家財道具を避難させる場所がない。少しでも濡(ぬ)らすまいと畳を立て掛けたり、畳をテーブルの上に上げたり、便所の汚物が上がってこないように蓋(ふた)をした人もいた。また、風呂桶が木製だったので水を入れておけば浮き上がらないし、水も必要だろうと満水にしたともいう。
 食品を扱う工場の話だが、濁流はどんどん入ってくる。機械を避難させたくても動かせない。仕方がないから全ての戸の下の隙間に座布団を詰めて水の侵入を防ぎながら一晩中バケツで水をかい出したという。
 困ったものは汚物である。まだ水洗便所になっていなかったから溢れた水はまず溜(ため)に入り、汚物が浮き上がる。原型をとどめたまま上流からも流れてくる。
 井戸水は出るが衛生上心配である。飲料水は給水車が来るのを待ち、井戸水は保健所の検査が終わるまで口にできなかった。
 その他にもいろいろなものが流されてきた。柴崎の養魚場から流れてきた金魚や緋鯉(ひごい)、野川の魚は水が引いた後、畑や田圃でどうなっただろうか。ここにも小さな犠牲者がいたのである。
 床上まで浸水すると行き場がない。2階のある家には近所の人が大勢避難してきた。役場でも学校・寺院など8カ所を避難所に指定し、避難してきた人たちに毛布やタオル、パン、おにぎり、たくあんなどを配った。中には夜中になって救出を依頼する人もいて、役場職員や消防団員は舟を借りて救出作業に当たった。汚水漂(ただよ)う中で救出作業に当たった職員の肌着の胸から下が黄色く変色していたという。
 小田急線は野川に架かる鉄橋が冠水し、その西側では線路の砂利が流されたため成城学園前と向ヶ丘遊園間が不通になった。
 つつじヶ丘からのバスも御台橋で冠水したため覚東までしか来なかった。あとは足元も見えない泥水の中を腰まで浸(つ)かりながら恐々(こわごわ)と家路を急いだ。
 狛江三叉路も水浸(みずびた)し、走る車がはねかす泥水は道沿いの家々や通行人を苦しめた。一中通りでも野川に架かる橋が冠水し、エンストを起こした車がドアを開けたら水が入ってきたという。そのように道路も諸所で途切れていた。翌朝出勤する時も道路はまだ冠水状態だったので長靴を履き、革靴を持って出かけ、駅で履き替えたという話も聞いた。
 その後野川の移設と下水道の完備で野川の水害はなくなった。
  井上 孝
(狛江市文化財専門委員)