神代団地50年

 太平洋戦争後の住宅難は深刻だった。東京都心の大部分が焼失した上、疎開地から戻ってくる人もいて、1軒の家に2世帯、3世帯と住んでいる場合もあった。しかし物不足と激しいインフレーションの中で民間での建築はほとんど行われず、公営住宅の設置も需要に追い付かなかった。そこで昭和30年に日本住宅公団が設立され、東京周辺に大規模団地の造成が始まった。
 狛江・調布にまたがる神代団地は36年から工事が始まり、鉄筋5階建て57棟(内狛江分4棟)、総戸数2,062戸(内狛江分190戸)、間取りは2DKが多く、わずかながら3DKもあった。募集の結果は10数倍の競争率で庶民にとっては高嶺の花だった。また、公団住宅で都内初めての地元優先制度が採り入れられ、狛江市にも16戸の割り当てがあった。
 40年7月26日から入居が始まった。新しい団地にはダイニングキッチン、水洗便所、内風呂などと新しい設備があって、人々の生活を変えた。それまで多くの家では、夕食も一家団欒(だんらん)も茶の間でちゃぶ台を囲み、台所で用意した食事やお茶を運び一刻(ひととき)を楽しんだが、団地生活では台所と居間がひとつになったダイニングキッチンで椅子に座って食事をするようになった。入居の日には新しい生活のために必要なものを売る出店もあって、大勢の若い人たちで賑わっていた。
 玄関の鍵を掛ければ安心して外出できる。公園もある。緑豊かで、近くに川が流れ、子どもたちのための環境が良い。団地の中央には商店街があって買い物も便利だし、日曜日には中央広場に野菜、魚、パンなどさまざまなものを売る出張販売が来て賑やかだった。バスもつつじヶ丘・和泉(現和泉狛江消防署前)間、神代団地から二子玉川駅と成城学園前駅への運行が開始され、便利になった。
 子どもたちのために幼稚園と診療所、調布側には野川小学校が新設されたが、狛江側は人数が少ないこともあって狛江第二小学校と狛江中学校に通わなければならなかった。また、この団地には若い世代が多く、翌年が丙午(ひのえうま)ということもあって入居した年に生まれた子どもが402人であった。やがて幼稚園に入るのが大変な時代が到来した。
 困ったのは団地のサイズである。これまでの建築よりサイズが狭いため、家具がうまく入らなかったり、ござや絨毯(じゅうたん)を折り曲げなければならないこともあった。
 また初めて入る集合住宅もトイレや風呂の水の音、階段の上り下りなど階下の人への気遣いもしなければならなかった。
 野川はまだ旧水路を流れていて新野川は工事中。41年6月の台風4号では行き止まりになっていた新水路も満水になった。
  井上 孝
(狛江市文化財専門委員)