下水道と私たちの生活 環境月間に寄せて

 市内の学校が木造校舎の頃はどこの学校も便所は校舎から離して建ててあった。便器の下に大きなし尿溜があってし尿の臭気が常に漂っていたので、それが教室に流れ込むのを防ぐためである。また、し尿溜に児童が落ちたら大変と低学年の教員はいつも気を使っていたという。
 家庭の便所も床下にし尿溜があって適当にたまった頃に、町の職員が来てくみ取っていたからいつも臭気が漂っていた。だから便所には上に窓、下に掃出口が付けられ、窓下にジンチョウゲを植えている家が多かった。ある時、子どもたちに「この花なんの花」と聞いたら「お便所の花」と言ったという笑い話がある。
 それも昭和47年に岩戸地区を皮切りに昭和54年に市内全域の下水道が完成したことで水洗化が進み、快適な生活ができるようになった。特に公衆便所がきれいになったのはうれしいことである。また、台所や風呂の水も安心して流せるようになった。
 昭和53年頃の多摩川は水道橋でBOD(生物化学的酸素要求量)17.9ppmと測定されるほど汚れ、水は濁り悪臭を放っていた。だから釣った魚のうろこやひれに潰瘍ができていたり背骨が曲がったものも多かった。
 昭和47年に市内が流域下水道野川幹線に接続されて以後、多摩川流域の下水道化が進み、平成9年には水道橋でBOD2.6ppmとだいぶきれいになった。だから奇形魚を見ることはなくなり、今はマルタが産卵のために上ってくる。春になると漁業組合の人が五本松や二ヶ領用水堰付近の砂利を洗い、マルタの産卵場をつくっている。
 狛江市は国分寺崖線の下にあって中央を野川が流れていたから、住宅開発が盛んになった昭和30年代から40年代初頭にかけては狩野川台風、伊勢湾台風、台風41号などたびたび水害に見舞われていた。そこで昭和42年に野川が移設・拡幅されたこともあるが昭和54年に市内全域の下水道が完成してからは洪水は起こっていない。家庭や事業所から排出された汚水(合流地域は雨水も混じる)は下り傾斜の下水管の中を流れ、一定の深さになるとポンプでくみ上げてはまた下り傾斜の下水管の中を流れることを繰り返しながら森ヶ崎水再生センターに達する。世田谷通りの中野橋東、左側にある下水道局排水調整所もその一つであるし、狛江駅南入口交差点の東にある狛江(中継)ポンプ場も低地の水をくみ上げて本管に流し込み、低地の浸水を防ぐための大切な施設である。
 下水管は道路の下に網の目のように張り巡らされていて、普段目にすることがないが、その管理は大変である。油を流さない、ごみを入れないようにみんなで心掛けたいものである。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)