明治維新と記念碑を訪ねて

  明治元年新政府が樹立すると7月17日江戸を東京と改称。その後東京遷都が行われ、翌年井伊領は彦根県に、旗本領は品川県になり、明治4年には彦根県も品川県に編入した。中和泉の荒井家の庭には明治4年建立の「品川県合併の碑」がある。
 明治5年多摩郡の大部分は神奈川県になり、明治11年には多摩郡が4分割され狛江の村々は北多摩郡になった。
 明治22年、市制町村制が施行され江戸時代から続いた和泉村、岩戸村、猪方村、駒井村、覚東村、小足立村が一つになって狛江村になった。「狛江」とは和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)などに記されている古い地名である。その頃の様子が元和泉2丁目の水神社の石祠(せきし)(左側にある四角い石)で読み取ることができる。明治22年に建てたもので、右に「北多摩郡狛江村和泉(世話人略)」、左に「神奈川県北多摩郡元和泉村(発起人略)」とある(元和泉村は合併前の和泉村を指す)。
 明治19年に東京市内でコレラの大流行があった。その頃の水道は江戸時代と同じで、玉川上水の水をそのまま地下を流し、くみ取って利用していたからその水源管理の重要性を考え北多摩郡、西多摩郡、南多摩郡を東京府に移管することになった。その頃盛んだった自由民権運動を弱めるためもあったという。
 明治維新の改革の一つに神仏分離、一村一社制、神社の社格も定められた。村社になった伊豆美神社が郷社に格上げされたのは明治16年で、その喜びを込めて明治19年に建てた「伊豆美神社碑」が伊豆美神社にある。また、境内入口に「郷社伊豆美神社」という碑もあるが、それも郷社になった喜びの中で明治22年に建てたものであろう。
 一村一社制で明治4年下覚東にあった三島神社を上覚東の子之権現に合祀(ごうし)して子之権現三島神社にしたこと、明治21年に新しい社殿の建築に着手し、明治25年に遷宮したと記す「建築記念碑」が西野川の子之権現三島神社にある。また、同年同神社に幟石も寄進している。
 一村一社制は玉泉寺にあった白幡神社も明治3年に猪方に移転し、菅原神社を合祀して白幡菅原神社にした。
 明治維新の時、東征大総督であった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)は多摩川が好きでたびたび訪れ、明治22年に来た時には玉翠園に立ち寄り松の木を褒めたと言う。お褒めの松という名が長いこと残っていた。その時であろうか伊豆美神社にも立ち寄り「伊津美神社」と書いた額が今も拝殿内の正面に掲げられている。
 伊豆美神社には明治26年に建てた建築記念碑や、明治34年に建てた「井伊直弼公敬慕碑」もある。裏面は開港碑になっていて日本と外国との交わりの歴史や、井伊直弼が開国を成し遂げた功績を顕彰している。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)