昭和27年 村から町へ

 昭和2年に小田急線が開通して便利になったことと、関東大震災、太平洋戦争などの後に住宅地が次第に西に広がり、狛江村の人口も昭和27年には1万1,246人に達し、人口密度も1k㎡当たり1,774人、その上、地方自治法でいう家族を含めた人口の6割以上が商工業その他都市的業態になった。そこで村では町制を施行することになり、町制施行の申請書を東京都知事に提出した。
 町制施行に際しては人口、人口密度などの他に、商工業ならびに都市的業態の企業とそれに従事している者が5年間にどのくらい増加しているかなど、さまざまな決まりがあるが、関係書類の中から当時の狛江村の状況を見ることができる。
 小学校2、中学校1、高等学校・大学なし、図書館・公民館・運動場・保育園・幼稚園もなく、児童公園2、上・下水道なし、交通は小田急線、小田急バスと東急バスの渋谷~国領間の1路線だけ(乗降人員一日平均は狛江駅4,185人、和泉多摩川駅2,324人、バスは小田急バスと東急バスを合わせて518人)だった。
 銀行なし、金融機関は農業協同組合と狛江郵便局(現狛江駅前郵便局)の2つだけ。会社工場は30カ所あったが資本金500万円以上が3社、病院1、医院8とある。
 警察署はなく駐在所4、消防署もなく消防団が7分団で担当し、器具も自動車ポンプ1、ガソリンポンプ4、腕用ポンプ5という状況だった。
 官公署は愛光女子学園、狛江郵便局(郵便発信1,131、受信1,226、電信発信18、受信21)電話加入85、ラジオ聴取1,554戸、水道局狛江浄水場、狛江村役場があって役場吏員28人、議会定数22人だった。村の予算総額を全人口で除した額は1,797円、自転車や荷車にも税金がかかっていた。
 そのような状態だったが認可され、昭和27年11月10日より町制を施行することになった。
 また、この年は狛江第一小学校が明治5年に公立観衆学舎として創立して以来10月で80周年を迎えていたので町制施行式典と合わせて11月10日に記念式典を実施することになった。
 式典は狛江第一小学校の校庭で行い、正面に紅白幕を巡らせて演壇を置き来賓席とした。そして演壇の下には表彰者、村内の全校児童・生徒、一般参列者、式典関係者が並んだ。
 その頃は体育館がなかったので、雨天の場合は3教室続けて使う予定だったが幸い天気に恵まれて盛大な式典が行われた。
 式後の協賛会は一口300円の会費制度で行われ、児童・生徒には祝菓子が配られた。
 その他記念行事として児童作品展、演芸会、記念誌の発行などを行っている。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)