ヘルマンさんと狛江のハム

 今では誰でも、いつでも食べているハムやソーセージを日本に普及させたのはドイツ人のヘルマンさんで、狛江と大変関わりの深い方だった。
 ヘルマンさんは第一次世界大戦の時、ドイツが中国から租借していた青島の守備兵だったので捕虜として日本に連れて来られ、広島県の似島の収容所に収容されていた。
 その頃の捕虜の扱い方は朝夕の点呼を除いては自由だったので、ヘルマンさんはいつもハムやソーセージを作っていた。それが大正8年に広島県物産陳列館(現原爆ドーム)で行われた似島独逸(ドイツ)俘虜(ふりょ)技術工芸品展覧会に出品され、日本人の間で大変好評を博すことになった。
 その後、第一次世界大戦が終わってもヘルマンさんはドイツに帰らず、大正9年に明治屋に入社。銀座の明治屋でハムを作り、大正11年には横浜の明治食料で技術者としてハム、ベーコン、ソーセージなど肉製品主任として働くことになった。
 また、昭和9年のベーブ・ルースを迎えての野球試合の時には、日本で初めてホットドッグを作り甲子園球場で販売した。
 昭和16年に太平洋戦争が始まると長野県野尻湖畔に疎開し、終戦を迎えたが、その後東京に戻り、狛江との関わりが始まる。
 その頃狛江には()場があって新鮮な肉を得やすかったことと、食肉加工の機械があったこと、水が良いことから昭和22年に屠場の一角を借りてハム、ソーセージ作りを始めた。戦後の食料難の時代だったが、そこで作った高級なハムは多くのデパートや有名なレストランで販売されるようになった。その頃はデパートや明治屋でも製品を運ぶのにリュックに詰めて行った。
 ソーセージを売り始めた頃、売れ行きが悪かったので売り場で焼いてみたら匂いに釣られて大勢の客が集まり、飛ぶように売れたというエピソードがある。
 昭和23年にはヘルマンウォルシュケ食品株式会社を設立し、岩戸橋の近くに新しい工場を建てた。一時は300人を超す従業員がいたという。
 その後軽井沢に売店を作り、夏だけ開いてハム、ソーセージを売っていた。そこでも新鮮なものを売ろうと東京から軽井沢まで夜行列車で運んでいた。
 また、彼は自らの技術を多くの人に与えることを喜びとし、そのとき彼が最も大切にしたことは衛生面と迅速さであった。
 住まいも猪方に求め、夫婦と子ども5人で住んでいた。
 しかし彼は昭和38年に亡くなり、今は泉龍寺に眠っている。
 墓碑に「祖国ドイツを誇り、第二の祖国日本を愛したヘルマン・ウォルシュケここに眠る」と記されているように、彼の心はいつも「日本に世話になったから日本のためになりたい」という気持ちに満ち満ちていた。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)