昭和初期 泉龍寺 大久保益男さんの話から

 泉龍寺には安産や子育てに御利益があるという「まわり地蔵尊」があることから多くの信者がいて、一カ月かけて信者の家を回り、毎月23日にお寺に帰るという行事(送り込み)があった。
 そこでその日には、大勢の信者に付き添われてお地蔵様がお寺に帰って来て、境内で縁日が行われる。参道の石畳を挟んで両側に露天商が並び、あめやお菓子、おもちゃや団子、夏にはかき氷などが売られていた。私の家でも、岩戸の土屋酒造から仕入れた酒造米のふすまで作った「地蔵団子」を売っていた。
 庫裏(くり)の東の石垣の上には舞台が造られ、旅芸人が芝居を行っていた。舞台の後ろが楽屋になっていて、芸人たちは生活用具一式を持参し、楽屋の裏で寝泊まりしながら芝居をしていた。
 芝居がある日はチンドン屋が回って知らせて歩く。境内いっぱいに店を出す露天商と、露天商が灯すカーバイドランプから出るアセチレンガスの匂いが祭りを盛り上げ、村の人々もそれを楽しみに大勢集まってきた。
 送り込みの人たち20数人はお寺に泊まった。布団も箱膳もお寺にあるし、(まかな)いは近所の檀家(だんか)の人たちがやってくれる。
 弁財天池は寺伝によると奈良時代に大仏建立で功のあった良弁僧正の雨乞いで湧き出したという湧き水で、(ほこら)の脇にケヤキの古木とモミジがあった。秋の紅葉は素晴らしかったし寒い冬には湯気が立ってすごかった。
 水底まで澄んで見えるこの池は子どもたちの遊び場でもあったが浅くて泳げないから、水のかけっこをしたり、サワガニやお腹の赤いイモリやモエビを捕まえたり、ハヤなどの魚を捕って遊んでいた。鮎もいた。藻で巣を作ってふ化するというトゲブナもいた。ムサシトミヨといって今は天然記念物になっている魚もいた。カワニナがいたから蛍もたくさんいてきれいだった。川の下流にはクレソンがたくさんあって東京の業者が採りに来たけどこの辺の人は食べなかった。川にはカワエビがいたので天ぷらにして食べた。
 泉龍寺では日曜学校をやっていた。対象は小学校6年生までの子どもで楽しく学んでいた。
 その頃はどこの家でも家族が多かったから、住職の菅原掌運さんはいつも「兄弟仲良くするんだよ」とか、「本堂の周りに十二支の彫りものがあるけれど、お釈迦様がいた頃、病気をした人に動物でありながらお見舞いに来たのが十二支の動物なんだよ」とか、「ところで猫はいないんだ。猫はねずみを捕るからみんなが嫌って入れなかったんだよ」などと面白い話をして子どもたちを楽しく遊ばせてくれた。また「親に孝行しなさい」「兄弟仲良く」「体を鍛えなさい」などともよく言っていた。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)