食料不足の苦しみ 東京都平和の日に寄せて

 昭和16年4月からお米が配給制になり非農家の場合1人1日2合3勺と決められた。その後戦争が激しくなるにつれ労働力不足や肥料不足などが深刻になり、米の中に大豆やコウリャンを混ぜて配給するようになったり、お米の代わりに薩摩芋が配給されるようになった。主食さえそういう状態だったから野菜も十分に手に入らない。
 だからどんな狭い庭でも掘り起こして家庭菜園にし、茄子や胡瓜が植えられた。特に南瓜は軒下の狭いところに植えても支柱を立てればどんどん伸びて屋根まで上がる。屋根の上は広々としていて日当たりがよく、よい菜園になった。その上南瓜は食べごたえがあるし、長持ちするから「何が何でも南瓜を作れ」と勧めていた。誰が始めたのか多摩川の河川敷や道路際、狛江駅の構内まで耕していた。
 野菜を作るには肥料が必要だが売っていない。やむなく落ち葉を拾ってきたり、台所から出た野菜くずなどを積み上げ、人糞をかけて堆肥を作った。便所のくみ取りなど初めての経験。臭い、汚いなどと言っていられない。自分でしたものを自分で処理して野菜を作り、口にした。
 野草も大切な食料になる。だから食べられる草は、皆摘み取って胃袋を満たした。狛江国民学校の児童もセリ、ヨメナ、ノビル、タンポポ、ナズナ、カンゾウ、ギシギシ、ハコベ、ヨモギを摘んで農業会を通して都内の国民学校の給食用に送ったという記録がある。
 魚や肉などもめったに口にすることができなかった。船を出そうにも敵の潜水艦の目が光っている。だから得体の知れない魚が配給になっても食べる他ない。肉はなおさらである。牛や豚に食べさせる飼料がない。昭和16年に「肉なし日」が設定されて回覧板で回っている。
 そんな状態だから薩摩芋や大根を小さく切ってお米と一緒に炊いたり、小麦粉を練ってすいとんを作る。白米など口にすることはできなかった。
 野菜や魚の配給も、世帯によって人数が違う。配る物も大きさが違うし頭も尻尾もある。部位によって質が違うし食べられる量も違う。目方だけでは分けられない。配給を受ける方は、うの目たかの目である。
 外で食べるにはお米の配給を受けないで外食券をもらい、外食券食堂で食べるのである。村には一軒の雑炊食堂があった。
 農家も作付面積に応じて供出量が決まる。自分の家で食べる分が足りなくても割当量は出さなければならない。野菜も各農家に割当量が決まっていた。
 どんな状況になっても「食料」は生命に関わることである。一日たりとて我慢できない。これらのことは今からわずか75年前のことである。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)