昭和32年狛江

  人口1万7,924人、世帯数4,446、田の面積787反、畑2,183反、山林原野514反、専業農家143、兼業農家235と、まだ農家が多く、乳牛55、馬1、ヤギ5、豚90、鶏2,219羽等も飼っていた。
 そこで町役場では農家の副業としてシイタケ栽培をする方法の研究を前年に狛江中学校の4Hクラブに依頼していた。4Hクラブは昭和28・29・30年と連続して全国大会に出場したほど研究熱心だった。4Hクラブでは早速校舎の裏にほだ場を造り、栽培を行い、菌の植え込み、水やり、菌の繁殖状況、冬季ビニールハウスでの発芽の状況などを調べ、この3月に研究報告書を提出した。
 この年の大きな問題は世田谷区への編入問題である。昭和28年に施行された町村合併促進法に従い、3月20日に東京都行政部から調布町、神代町、狛江町の三町が合併するように勧告が出ていたが、地域的に世田谷区に編入したいという者が議会でも町民でも半数を占め、調布合併か世田谷編入かを争い、署名活動や街頭放送、折り込み合戦などが繰り広げられた。そのため議会の解散や町長のリコール請求などがあったが、翌33年には町長が交代し、後任町長は、調布、神代はすでに合併していたのでその間題に触れることなく狛江町単独で町制を貫いた。
 狛江第三小学校ができたのもこの年である。当初は狛江第三小学校として9月開校を予定していたが、開校時1年生から5年生まで10学級の予定だったので、東京都は12学級なければ独立校として認めないという。そこで名称を第一小学校分校に変更したが、その後独立校でもよいという許可が出て、昭和32年10月1日に落成式を挙行、翌日より授業開始、15日に開校式を行った。新しい校舎は、周囲一面水田が広がる矢崎山に、木造2階建て12教室と、教員室・宿直室などの木造平屋建ての2棟。全て南に面し明るい校舎だった。そして世田谷通りの南側の児童430人、10学級が就学し、翌年からは町内初めての学校給食を開始している。
 町で初めての公民館ができたのもこの年の6月である。元村役場の古い建物を改造したホール一室と和室一室しかなかったが社会教育、青年学級、婦人学級が盛んに行われるようになり、この年1年間に青年学級として和洋裁、華道、手芸、茶道、ペン習字、珠算、コーラス、体育などが行われた。
 この他にも町の様子を眺めると、図書館がなかったから毎月一回自動車に本を積んだ移動図書館が町役場にやってきた。
 また、自転車税、荷車税というのもあったし、犬を飼えば犬税がかかり、たばこ税は町の大きな収入だった。小河内ダムが完成したのもこの年である。
  井上 孝
(狛江市文化財専門委員)