昭和20年8月15日、戦争は終わった。空襲警報のサイレンは鳴らなくなり、灯火管制は解除されたが、やがて来るであろうアメリカ兵への恐怖心が日々の生活を襲った。
 8月24日朝、嵐の中を相模原の兵営を後に郷里に向かう多くの復員兵らを乗せた八高線の満員列車が、多摩川鉄橋の上で正面衝突し、両方の機関車は食い込み、双方共1両目の木造客車は押し潰されて砕け散り、死傷者200余名、その多くが満水の川に転落した。そして濁流に押し流され、日野橋での必死の救助活動もむなしく、何体もの遺体が狛江の岸辺に流れ着いた。そのつど村の医者と看護婦は警察官と共に検視のために河原に向かった。9月になっても流れ着く遺体があった。
 10月22日には、東京急行電鉄小田原線(現小田急電鉄)の新宿・海老名間で進駐軍専用車の運転を始めた。相模原一帯には元陸軍士官学校をはじめたくさんの軍事施設があって、それらが進駐軍基地として接収されたため、そこのアメリカ兵を運んだのである。車体に白い帯を巻いた列車が、満員の一般電車を横目にガラガラで走っていた。
 20年10月15日、東京重機工業の本社に米第8軍の軍医大隊長が来て、進駐軍の病院に使うのだからと、本社・工場・倉庫など、現在慈恵医科大学第三病院があるあたりから東の部分の接収を申し渡された。
 アメリカ兵が来ると、彼らと仲睦まじく手をつないで歩く女性の姿が見られるようになった。そして彼をからかう男性もいたし、またその男性を追いかけるアメリカ兵もいた。着るものも、住む家もなく、食べるものもないどん底生活の貧しい時代だった。
 世田谷通りを通るジープに乗ったアメリカ兵は、子供達を見るとガムやチョコレートなど、当時の日本では食べられないものを投げ与えた。やせこけて目だけぎらぎらさせた日本の子供達は、やがてアメリカ兵を見ると「ギブミー、チュウインガム」などと片言の英語で言うようになった。
 松原交差点に近いSさんの家も、当時としては珍しい洋館建築・水洗便所だったために接収されて将校宿舎になった。そのため畳は全て取り外されて床板が張られ、壁はペンキで、柱や廊下など木目(もくめ)のあるところはニスが塗られた。そのうえ土足であがるなど、まったくアメリカ風の生活が行われていた。
 パーティーもよく行われた。パーティーの日には庭いっぱいに自動車が並び、その日の食べ物さえない日本人の台所に、バーベキューのいい匂いが直撃した。
 
  井上  孝(狛江市文化財専門委員)