昭和30年代後半までの狛江の町民は、飲料水を自家の井戸水に頼っていた。
 その後、都市化が進み、住宅が増え、多量の地下水を汲み上げたため、地下水位を低下させた。ビルの建設は地下水の流れを断ち、水が豊富な狛江でも、井戸枯れによる水不足が深刻化してきた。
 38年1月に狛江町は、水道計画を策定。翌月、国の事業認可を受け、町として水道事業に着手することとなった。
 その折もおり、シアン液が野川(現在の野川緑地公園)流域の各家庭の井戸を汚染するという「野川・毒液流入事件」が5月に発生した。この事件が、前月から本格的に始まった全町5か年計画の公営水道事業を促進することとなり、早期完成の一因となった。
 水道事業を進める体制として8月1日に、水道課が課長以下3人で組織され、10月から1期工事(二小と狛江三叉路との間)を始めることとなった。
 給水場は、給水のための勾配を考えて、平坦な狛江でも標高の高い場所に建設することとし、現在地に用地を取得し建設に着手した。水源は、深度100メートル、口径300ミリメートルの深井戸5本で1日12,500トンを給水できる体制を整え、39年6月に、水の供給を開始した。町内初めての水道による給水を祝う中、この当初の配水管延長が約13キロメートル足らずと、普及率ほぼ100パーセントの現在と比べて1割程度であったため、マスコミからは「急場しのぎ」との非難を浴びることとなった。
 当時の基本料金は、10立方メートルまでは250円、1立方メートル増すごとに25円を加算した。
 この水道は、新しく区部などから移り住んできた住民には、好意的に受け入れられたが、従来からの井戸水に親んできた住民には、カルキ臭いと、あまり評判は良くなかった。
 人口増に対応するため、41年に拡張工事の認可を得た。給水人口を80,000人とし、震災対策を考えて鋳鉄管の敷設を前提に全体事業費5億円としたが、財政上の理由で、3億円に縮小せざるを得なかった。そのため、石綿管の敷設を余儀なくされ、また、地下埋設管の整理もできずに、一つの路線にまちまちの径の管が通るという結果になってしまった。この石綿管は震災に弱いため、現在、この敷設替えを行っている。
 2期工事は昼夜兼行で行い、43年度には、町内全域の給水が可能になった。
 しかし、狛江だけではなく、広く東京近郊に及ぶ地下水の枯渇、新たに地盤沈下が深刻な問題となり、三多摩水資源協議会を近隣自治体で結成し、地下水に代わる新たな水源を考えるため協議をした結果、48年11月に、相模川の水を源水とする三多摩地区水道の都営一元化が実施され、狛江市はこれの委託を受けて水道事業を行うこととなり、現在に至っている。
 50年12月からは、長沢浄水場を経て送られてきた相模川系の水に代わり、利根川の水が直接、狛江市の給水池に送られてくるようになり、この給水池で、狛江の井戸水約2割をブレンドし、各家庭に供給している。