昭和30年代後半の急激なモータリゼーションの発達と並行し、小田急線沿線の開発も進み、運行電車数も年々増え、踏切の開放時間は50年頃のラッシュ時には1時間に10〜15分程度となった。この踏切で車は渋滞し、市域が南北に分断され、市民生活や消防活動などに支障をきたし、この改善についての要望が相次いだ。
 既に47年には、市議会に都道対策特別委員会が設置され、1年の期間を費やして、狛江駅の橋上駅舎化が検討されたが、50年の市議会改選後に、小田急線立体化促進特別委員会が設置され、小田急線の1線路そのものを連続立体化させようという気運が高まった。
  この気運を踏まえ、その年8月に狛江駅前広場小田急線調査担当を設け、翌51、52年にかけて沿線住民を対象に連続立体化に対する市民意識のアンケート調査を実施した。その結果、消極的賛成も含めると約85パーセントが「高架もやむをえない」という回答であったので、連続立体化に向けて検討を進めることになった。
 この頃、西武池袋線の高架化に対し、沿線住民から猛烈な反対運動が起こっていた。反対運動の火種が狛江にも飛び火しないかという不安の中、住民に対しアンケート調査結果の説明会を行ったが、平穏のうちに終わった。
 このアンケートの結果を踏まえ、53年7月に、市、都、小田急㈱の関係者と地元代議士、都議会議員とで小田急懇談会を設け、この問題について検討を重ねた。8月には建設省も加わり、検討を重ねた結果、鉄道の高架化の必要性を客観的に明確にする必要があるということになり、そのための調査(予備調査)を狛江市で行うことになった。委員会を組織して、53、54年の2年間で、立体化事業に関する予備調査を実施し、その結果を55年に市民に説明したが、この段階では、計画線の入った図面まで作っていなかったので、大した反応はなかった。この状況を建設省や大蔵省に報告するとともに、補助事業として採択されるよう、陳情を繰り返した。特に55年11月から12月にかけては連日、建設省や大蔵省に陳情のため足を運んだが、大蔵省の主計官室には「ね雪をけずって財政再建」の張り紙があり、その中での陳情である。主計官には「張り紙をよく見て下さい。大変きびしい状況です。」と言われ、同行してくれた代議士とは「認めてくれるまで帰らない。」というきびしい応酬もあり、その甲斐あって、55年12月発表の、56年度大蔵省予算原案で小田急線高架複々線事業が事業採択され、調査に対する国の補助金が認められて、56、57年に計画案を作成した。この計画案の作成段階で、市が積極的に要望したのは、急行か準急の狛江駅停車と鉄道敷の南北の両側に側道(環境側道)を設置することである。
 急行や準急の停車は、起点または鉄道の交差駅以外は困難ということで実現しなかったが、南北両側の側道については担当職員の大変な努力の末、実現の運びとなった。従来、このような高架建造物には日照のみを考えた北側側道しか考えられていなかったが、都市景観、通風、振動等もさることながら都市機能も考えあわせると、南側にも側道がぜひ必要であるとの主張を繰り返し、国との交渉を重ね、狛江市の主張が認められ実現した。画期的なこの側道の設置は、後にも先にも狛江だけとなるであろう。
 この計画案で57年10月に住民説明会を開いた。事業者は線増部分については小田急電鉄株式会社、高架部分については東京都で、地元狛江市も加わり3者の共催となる。このときに初めて計画線の入った図面を提示したが、会場に集まった約100人の市民からは猛烈な反対意見が出された。市長も出席していたが、罵声で会場が騒然となることもあった。これでは、連立事業計画の進行に支障をきたすので、短期間のうちに担当職員で沿線権利者を戸別に訪問することとした。罵声を浴びた後なので、平然とした気持ちでの訪問ではなかったが、狛江市百年の大計に沿う大事業なので使命感を帯びての訪問であった。この事業と並行して中央線の高架化事業計画の検討も行われていたので、中央線が先に工事着工されることになると、中央線に巨額の国費が投入されることになり、小田急線は後回しとなる。今度いつ事業が開始されるか分からないという懸念もあった。
 58年3月に市内3会場で行われた小田急線運続立体化交差事業計画案の住民説明会では、世田谷区の高架化反対組織のメンバーも訪れたが、戸別訪問による説明で多くの住民の理解を得ていたので反対の声はさほどでもなかった。
 その頃、東京都環境アセス条例が施行され、この事業が第1号の適用を受けることになり、環境影響評価の手続きのため、約2年間を割くことになった。公聴会も行われ、結果的には、事業計画に住民の意見が十分に反映され、またこの2年間が反対運動の冷却期間ともなった。60年3月都市計画決定、61年6月都市計画事業認可、事業着手となり、事業用地の買収が始まった。
 用地買収は、小田急電鉄㈱により進められたが、同社では体制を強化して望んだため順調に進行し、平成元年8月には、いちょう通り〜野川間で高架橋工事及び仮設工事に着工する運びとなった。現在、平成5年度の完成を目指し工事が進められている。
 この事業が完成すると、市内13箇所踏切が取り除かれ、市域の分断化が解消され、まちづくりに大きく貢献することとなるが、土地の高騰時期に遭遇したため、当初、事業認可前では線増部分を含め約488億円とされていた事業費が約1.5倍になるものと見込まれている。