本橋トミさんは訓練のとき、「夕立のような音がしだして花火のようになったら、防空壕から出なさい。」と教わった。夕立のようなゴゥーツと物すごい音がしたので、とっさにそのことを思い出し、みんなを防空壕から出した。もう、あたりは一面火の海だった。母屋が盛んに燃えていた。子ども達の学校の道具が、いざの時のために縁側に並べてあった。それを取りに行くにも火勢が強くて近寄れない。死ぬなら一緒だとみんなで物置の前にたたずんでいた。物置は無事だった。防空壕には火が入った。もし中にいたら焼け死んでいた。焼夷弾の火は水をかけると消えたので、燃え盛っている辺りの火をやっと消し止め、ハケから根川に下りて田んぼの方へと逃げ道を作った。いつも気丈な姑(はは)も、母屋の火勢に押されてガタガタとふるえている。何とかみんなを安全な場所に避難させた。物置はトタン屋根だったので焼け残った。しかし、母屋の火が襲ってくる。近所の人の応援で根川の水をバケツリレーして物置にかけた。トタン屋根がジュウッと鳴った。お陰で物置への延焼は食い止めた。母屋は全部燃え落ちてしまった。

 本橋さんでは、主人の光雄さんが警備召集で、調布の飛行場に勤務していた。母親と子どもやけど達四人、それに横浜の親戚の人が三人疎開で同居していた。その疎開のおばあさんが火傷を負ってしまった。最初はわずかの火傷に思えたが悪化し膿んでしまった。村役場からけが人は申し出るように言われていたので行ったが、一週間経ってしまったのでと受け付けてもらえなかった。トミさんはおばあさんを連れて、調布の時崎さんへ行って診察してもらったが、ここでは無理だと断られ、調布市場の近くの医院までリアカーを引いて行った。そこの医院には看護婦さんがいなかった。トミさんがおばあさんを押さえて治療にかかった。おろし金のようなもので患部をこすりばい菌を取った。注射も何もしない。おばあちゃんはその痛さに「殺してくれっ。」と、悲鳴をあげた。その時トミさんも気分が悪くなり、吐き気を催して吐いてしまった。治療室には洗面器が置いてあった。それはトミさんのような人のためのものだったという。

 家が全焼したことは、飛行場の光雄さんにも知らされた。帰ることができたが、光雄さんは、「焼けた家に戻っても仕方がない。勤めを果たすことが大切だから。」と言って戻らなかった。近所の人や親戚の人達が総出で焼け跡を片付けてくれた。前の麦畑にも焼夷弾が落ちて、収穫前の麦も燃えてしまった。防空壕の中も焼け、生活道具は何も出せなかった。食器もない始末で、下駄一足、靴も出せず着の身着のまま、その日は親戚の金物屋の家に泊めてもらい、その後は焼け残った物置と木小屋を改造して、疎開の人達とそこに住んだ。一番困ったのは子どもの着物や学用品だった。皆さんからもらったお見舞いの品は、大体子ども達の物に換えられた。

 上和泉(中和泉四、五丁目)では、光雄さん以外に、毛塚金次郎さんの家の物置が直撃で全焼し、納めてあった疎開の荷物も焼けてしまった。どこの農家でも疎開の人がいたり、荷物を預かったりしていた。必死の防火作業で母屋だけは助かったが他の建物は皆焼けた。毛塚鉄五郎さんの家では、床の間に焼夷弾が落ち、物すごい勢いで燃え上がったが、布団八枚を覆い被せてようやく消し止めた。光雄さんと本橋兼吉さんの間の竹やぶにも焼夷弾が落ちたが不発だった。跡に井戸ぐらいの穴があいた。加藤市五郎さんの家では、焼夷弾が屋根を突抜けて二階から階段下へ落ちた。周りを焼いたが消し止められた。荒井一さんは役場に勤めていて、そのころは毎晩役場に泊まっていたので主婦のイ子(ね)さんが中心だった。敷地内にいっぱい焼夷弾が落ちた。竹やぶの青竹がメリメリ燃え出した。みんなで一生懸命火を消した。毛塚清行さんは警防団員だったので、詰所へ行ってしまった。ここでも主婦のツヤさんが家庭を守った。近所が燃え、学校の方角が真っ赤だった。不安な気持ちのなかで、リアカーに積んだ荷物を畑の中道まで引き出し、家の者達を避難させた。千町耕地(西和泉)も火の海になった。田植え前で作物はなかった。玉翠園(現興銀寮:中和泉四丁目)の方までまるで花火を見るようだった。その他西河原(元和泉)の麦畑、現在の東洋化学(中和泉二丁目)や第二小学校付近、中和泉二丁目の十幹森稲荷近くの竹やぶなどにも焼夷弾が落ちた。(田代)