昭和二十年五月二十五日夜半、B29が狛江に焼夷弾の雨を降らせた。その最初の攻撃を受けたのは猪方上(猪方三丁目)の地域だったようだ。猪方では大型の焼夷爆弾が大量に落ちたらしい。その直撃を受けたのが並木仙吉さんと小川嘉七さんの家だった。
 並木さんの家は老夫婦二人の暮らし、大型焼夷弾の直撃でなす術がなかったのだろう。火勢はぐんぐんと増していった。南風が強く吹いていた。火の粉がかなり離れた市川常吉さんの方まで飛んでくる。市川さんでは長男の正雄さんが兵隊に征っていて、常吉さんの他には父の松五郎さんと、中学一年の和男さんしか男手はなかった。草屋根に降りかかる火の粉を払うため和男さんも屋根に登った。屋根の上で夢中で火の粉をはたいた。北の方角がすごく燃えている。大きな火柱の様子を見て父親が「学校だっ。」と言った。物置から穀物の俵を運び出すのも手伝った。大仕事だった。
 小川嘉七さんの家では床の間に直撃を受けたらしい。それですぐに燃え上がった。嘉七さんは出征していて、老夫婦と子ども達をかかえた大家族の銃後を奥さんが守っていた。おそらく避難するのに精一杯だっただろう。

 猪方の消防(警防団第三分団)は詰所の防空壕で待機していた。最初火の手があがっている庚申様の方へ向かったが、火勢が強い方へというので小川嘉七さんの家へ方向転換した。警防団員は所帯の中心になる人が多かった。焼夷弾の雨の中で我が家のことが気になった。誰かが「ちょっと見てくる。」と抜けると、それに連られて抜けて行く人が出てだんだん少人数になってしまった。山口さんの家の前の防火井戸から取水して、手押しポンプで消火にかかったが、小川嘉七さんの家はもう手の施しようがなかった。トタン屋根に塗ったコールタールに火がついてすごかった。火勢を受けて竹林の孟宗竹がポンポン音を立てて燃えていた。隣家の小川米三さんの家にも火の粉がかかっていたが、屋根がトタンだったのでどうやら食止めた。その北の山口久吉さんの家は草屋根なので危なかった。家の者は総出で屋根に登ってバケツで水をかけ消火に努めた。分団や隣組の人達がそれを応援して、屋根をむしり取ったり、ほうきで火の粉を払ったりしてようやく消し止めた。消火の最中もB29の攻撃はやまず、あちこちに落下音がして焼夷弾が落ちた。近くに落ちたときは、小川繁留さんはまだ最年少の団員だったが、「麦畑に落ちたぞっ。伏せろっ。」と怒鳴って皆を伏せさせた。あたりはメラメラと麦が燃えていた。
 小川嘉七さんの家の周辺の消火にメドがついたので、分団は並木さんの消火に行ったが、すでに燃え落ちていて、残り火を消しに行った程度だった。東の空が白みかけた頃ようやく一段落ついた。弁当番から届いた炊き出しのおにぎりを食べて一服している時、並木さんの老夫婦がいないことに気がついた。もしや家とともに?…。みんなで焼け跡を掘り返して探したがそれらしい姿は見つからなかった。並木さん夫婦は、空襲の後すぐに避難して新田堀の橋の下に潜んでいたが、恐ろしくて出て来られず、ようやく午前十一時ごろになって我が家の焼け跡に姿を現した。

 小川さんも並木さんも、不意の空襲で家財一切を失った。焼けた後、使えるものは何もなく、鎌一つ取っても草むしりに使うと刃が曲がるようだった。
 小川さんの家では防空壕暮らしをしながら、近くにバラックを建てた。終戦後家作の一軒に家を出てもらい、そこで暮らした。並木さんも防空壕暮らしだった。終戦後一、二年経って、掘っ立て小屋を作った。
 猪方では全焼した二戸の他にも多数の焼夷弾攻撃を受けた。しかし、直撃を受けなかった家では必死の消火作業で延焼を免れた。田や畑に落ちたものはそれが類焼するようなこともなく鎮火した。不発弾も多く、何か所かの畑には直径ニメートル半もある大きな穴ができた。
 空襲の後、消防で落下した焼夷弾の殻を集めたところ、肥引や野菜運搬に使う一トン積みの特製大リアカーに七台分も集まったという。(田代)