太平洋戦争と疎開

 昭和19年に入るとアメリカではB29爆撃機が造られると共に、日本本土空襲の基地確保のためマリアナ諸島への攻撃が予測されるようになった。
 そこで、政府は昭和19年3月3日に一般疎開促進要綱を出して高齢者と子どもの疎開を推進しようとしたが、全ての子どもに徹底できないことから、6月30日には学童疎開促進要綱を出して学童疎開の推進を図った。
 その直前、東京都は国の指示で「学童ノ事前退去計画資料調査ニ関スル件」という受け入れ施設についての事前調査をひそかに行った。その時北多摩郡は受け入れ地域だったので、狛江村でも児童が寝起きできそうな施設として四谷区郊外学校(四谷区教育農園の宿舎)80坪と泉龍寺50坪、その他の寺院は40坪未満と回答している。
 東京都の計画では、児童一人当たりの畳の広さは一畳、一施設100人以上収容できること、一つの村で一つの学校の全員を収容できるという条件を付けていたことと、狛江村は飛行場がある調布町と接し、軍事施設(照空灯陣地)と軍需工場があったことから除外されたのではないだろうか。そのため隣の神代村には来ても狛江村には学童集団疎開は来なかった。
 しかし、学童だけの縁故疎開はあった。子どもだけでも安全な所に行かせたいという親心から、親が出た家の祖父母や伯父、伯母を頼って来るのである。親元を離れた子どもたちの心はどうだっただろうか。世田谷区は学童疎開地域だったので、子どもを親元から離したくないという親心から、狛江村の知人の家に寄留して狛江村の学校に転入してきた子もいたので、狛江国民学校の児童数は、昭和18年の917人(18学級)から昭和20年には1,058人(23学級)と戦時下なのに141人(5学級)も増加している。一方、狛江村在住者でもより安全な所に行きたいと地方に疎開した子どももいた。
 家族全員で疎開して来る人もいた。区内にいたのではいつ焼け出されるか分からないから疎開しようというのである。狛江村は小田急線で便利だし、田畑ばかりだから安全だろうというのである。特に空襲が始まると家を焼かれ、住む所がなく、実家に居候して一つ屋根の下で暮らしたり、納屋を借りて生活しなければならない家族もいた。
 荷物だけでも安全な所に、という人もいて荷物疎開も行われた。大方は親兄弟の家に預けていたが、今と違って引っ越し業者などいるはずがない。多くは村に住む親や兄弟が荷車を引いて取りに行ったという。
 当時農村だった狛江村でも戦時下の生活は暗いことばかりだった。そんな生活を二度と繰り返さないように、5月25日はみんなで手をつなごう。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)