関東大震災から92年

 大正12年9月1日午前11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7・9の地震が発生した。その日は八朔(はっさく)の日で農家は仕事を休み、学校は始業式なので午前中で帰った。暑い夏の日だったので子どもたちは多摩川で泳いだり魚を捕って楽しんでいたが、突然ゴーという地鳴りとともに川の水が揺れ、澄んでいた水は泥水になった。子どもたちは慌てて川から上がり、地割れする道を我が家に向かった。
 村の被害は土蔵が崩れた程度と郡役所に報告したが、屋根の瓦が落ちたり茅葺屋根の重さに耐えかねて傾く家もあった。東の空は昼間でも黄色い煙でよどみ、夜は真っ赤な炎が夜空を焦がしているのが見えたという。そして終日余震が続き、翌日も翌々日も続いた。夜は停電のため前年まで使っていた石油ランプや手燭を探し出して使った。
 翌2日になると東京や横浜から罹災者が続々と親戚や知人を頼ってやってきた。そして都心の様子が分かるにつれ、親戚知人への思いで不安がいっぱいになった。また、暴徒が襲ってくるというデマが飛び交い在郷軍人会、青年会、消防組が自警団を組織し、警戒のために連日出動した。夜は三交替で各戸から必ず一人は出ることになった。
 3日、Aさん宅で心配していた姉夫婦が逃れてきたので叔母たちの様子も分かった。叔母たちは新宿まで来たが、これ以上行けないから迎えを頼むとのことだった。その夜、今夜0時に大きな地震が来るから竹やぶに避難しろという連絡があった。そこで竹やぶに蚊帳を吊って寝たが地震はなかった。
 4日の朝、Aさんは荷車を引いて新宿まで迎えに行った。新宿に近づくにつれ被害は大きく、新宿は避難者でごったがえしていたが追分付近でやっと叔母さんと会うことができた。砧を通っての帰り道でも自警団に会いいろいろ聞かれた末、避難者と分かると次への連絡もしてくれた。困ったのはデマである。
 5日、村役場から在郷軍人会、消防組、青年団の代表に通知が来て、東京市内への救助活動に協力するよう依頼があった。
 7日早朝、Iさんは握り飯を持って親類の家に見舞いに行こうと自転車で出かけた。赤坂見附から先は一面焼け野原でまだ残り火が燻(くすぶ)っていた。木煉瓦の焼けた道路や垂れ下がった電線を避けながら行ったという。
 9日、馬鈴薯(ばれいしょ)、南瓜、白米、梅干、沢庵(たくあん)、豆類、野菜などが俵(たわら)や叺(かます)、袋(ふくろ)、樽(たる)などに入れられ、合計335の物資と、現金305円20銭が集められた。
 11日、集められた物資が村人の手で虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)の被災者救援所に届けられた。
 13日現在、狛江村に避難してきた者は272人、みな親類、知己を頼ってきた者ばかりだと北多摩郡役所に報告している。

  井上 孝
(狛江市文化財専門委員)