台風と野川の洪水

 国分寺崖線の湧き水を集めて流れる野川は、小足立、覚東、和泉、岩戸など流域の水田の灌漑(かんがい)に利用されていたから、そのための(せき)が箕輪田橋、小金橋東、御台橋、丸山橋、岩戸橋など諸所に設けられていた。そのため大雨が降ると堰で(さえぎ)られた水が(あふ)れることが多く、昭和10年代にも溢れた水が道路にたまっていたので長靴を履いて外出したという話を聞いたことがある。
 昭和25年8月の台風でも野川が増水して箕輪、北久保(狛江第一中学校北)、三島(狛江第五小学校南)、北谷(市役所東通り)の水田7町歩、畑8町歩が約1週間冠水し大きな被害があったから農地に対する税の軽減を願う陳情書が出されている。その頃の狛江はまだ田畑が多く、農家の多くは台地上にあったから住居への被害は少なかったのであろう。農地に対する税の軽減だけが求められていた。
 昭和30年代に入ると流域の低地にも家屋が建ち始め、特に大手企業によって水田が埋め立てられ、住宅金融公庫融資付の建売住宅が立ち並ぶようになり家屋への被害が大きくなった。
 昭和33年9月26日未明の台風22号(狩野川台風)では、堰で溢れた水が灌漑用水路を通して低地帯に流れ込んだり、覚東・小足立の2カ所、野川の小田急線鉄橋付近や岩戸橋でも堤防が決壊し、濁流は北久保、三島一帯、電力中央研究所付近、町役場付近、駄倉付近、さらに標高の低い銀行町、猪方、駒井と流れ、床上浸水263戸、水田埋没5町歩、冠水15町歩、畑埋没・流失5町歩、冠水10町歩を出した。そして住民は学校や寺院に避難した。
 まさしく野川の流れは江戸時代初め小泉次太夫が六郷用水を開削したとき、市役所の東で野川と合流させて岩戸橋から二の橋の方へと野川の流れを変えたが、それ以前の野川の水路に戻ったようだったという。
 小田急線も全線不通になり、翌27日朝も成城学園前~向ヶ丘遊園間が不通で、開通したのは27日午後3時頃だった。その頃の野川橋梁(きょうりょう)は雨に弱く、大雨が降るとよく不通になった。
 その後も昭和38年10月9日から10日にかけての豆台風のような低気圧の通過で小足立、覚東、和泉地区の道路・畑の冠水。昭和41年6月27日から28日にかけての台風4号では床上浸水772戸、床下浸水918戸、田畑の冠水40ヘクタールもの被害を出している。
 毎年のように襲ってくる洪水の被害をなくそうと堰の撤去も考えたが水田があれば水利権がある。屈曲を直線にして川幅を広げようにも両岸に家屋が建ち並んでいてそれもできない。やむなく川底をさらい両岸の草刈をして新水路の完成を待った。
 その後新水路の完成と、公共下水道の完備で野川による狛江市内での水害はなくなった。

 井上 孝
 (狛江市文化財専門委員)