昭和十七年四月十八日 土曜日 晴
 
八時ニ十分、警戒警報発令さる。珍しい事だと別に気にも止めず。十ニ時三十分昼休み帰宅中空襲警報発令さる。すは空襲と巻脚半(まききゃはん)に戦闘帽で役場へ出かける。役場は未だ悠然(ゆうぜん)たるもの。軍へ対しての絶対信頼からである。味方機の爆音しきり、空襲警報たりとかく悠然としている日本人の姿が嬉しく感ぜらる。ニ時近く爆発音聞ゆ。「やっ高射砲の音だ。」と皆外を見やる。収入役が「やっ変な飛行機だ。馬鹿に早い。敵機かな。」等といふ。いよいよ敵機来たかと緊張す。されど、こちらへは飛来し来らず、やがて四時頃解除となる。
 防衛司令部発表によれば、十機内外の敵機数方向より京浜方面に飛来、各方面に無法爆撃するも我が方損害軽微といふ。遂に敵機襲ひ来る。されど我勝てり。隣組鉄壁の護りは敵をして何事をもなさせしめず、我が軍によりて多くは撃墜されたのみであらう。


  昭和十七年四月十九日 日曜日 晴
 
昨日襲来せる飛行機は米ノースアメリカン機であった。京浜地方各地にニキロ程度の焼夷弾をばらまいて行った様子であるが、隣組の手でしっかり固めた防空陣の為に其の効少なく、僅かの被害で食止め得たのである。

 以上は私の十七歳の時の日記からの抜き書きである。村役場の中の農会に勤めていた私は昼休みで自宅に帰り、食事を済ませたときに空襲警報が発令され、あわてて職場に戻った。日中戦争が長引いてきたころから、渡洋爆撃とかいって中国大陸への空爆が行われた反面、内地の防空体制は次第に強化され、隣組を単位とした防空演習は月の行事のようになっていた。太平洋戦争に突入するとそのことはさらに拍車がかかっていた。しかし、島国の日本に海を越えて現実に米軍飛行機が攻めてくるなどとは、だれもが予想してはいなかったことだった。鉄壁の防空陣とされていた首都への来襲には慌てたのが真実であろう。
 あの米軍機は見損なってもその爆音と、迎え撃つ高射砲の炸裂音は、狛江に住む人達の誰の耳にも達した。それが直接的な戦争体験の初めなのであった。数年後東京大空襲などという形で、膨大な犠牲を払うようになることは、夢にも考えていなかった。 現在伝えられている、当日の被害は『東京大空襲展図録』によると、来襲機数一三、爆弾・焼夷弾による戦災家屋ニ五一、死者三九、負傷者三一一というものであった。