今の西河原公民館の先辺りで多摩川の水を引き入れた六郷用水は、灌漑(かんがい)用水として、いちょう通り、一の橋を通り、世田谷通りに沿って流れていた。流れの両側はガサヤブで雑木や篠竹等が茂り、子ども達は夏は水浴ひをしたり木いちごの実を食べて遊んだ。その用水をはさんで小学校と、だぐら塚を屋敷内に持つ谷田部勝義さんの家があり、村人は「だぐら」と呼んでいた。だぐら塚の裏にいかだ道と呼ばれ昔多摩川の上流から六郷まで筏(いかだ)を運んだ筏師が、蓑笠(みのかさ)姿で歩いて帰った道があり、白井肉屋さんと産姿さんの小黒さんの家があった。都道に沿って東京航空計器、国際電気、東京重機と会社が並んでいたが村はほとんど田畑と雑木林の農村で、よもや戦禍を受けるとは思わず、谷田部さんの大家族の中にたんすを十何竿も持った小石川の伯母さんとお孫さんが疎開して来た。そこへ三月十日の空襲で焼け出された叔父さん一家四人が避難して来たので、店を仕切って住まわせていた。
 だぐらの店は、その昔あたり一面すすきの原だったころ、すすきの穂でミミズクを作って売るように教えられたのが商売の始まりで、文房具、雑貨、教科書、たばこ等を売った。本屋は長男精一さんがシベリア抑留から帰国後のことだ。
 五月二十五日の夜十一時ころからB29が編隊を組んで襲来、ボーッと長く大きなサイレンが鳴り渡り、空襲警報が発令された。勝義さんは大変責任感のある人で、いち早く身支度をし、勤務先の村役場へ行き、空襲警報で駆け付けて来た職員達の指揮をとっていた。村役場は戦災を免れたが家へ帰ると家はすでに焼け落ちていた。
 妻のトミさんと小さい子ども、親戚の方は母屋の西側に造った二つの防空壕へ避難した。大きい姉妹が縁側に用意しておいたふろしき包みを持って防空壕にもぐり込もうとした時だった。アラレをこぼすようなザーッという物すごい大きな音とともに目の前の庭に、家に、物置に大小の焼夷弾がすさまじい勢いで次々と落ち、真赤な火柱をあげ、たちまち家は燃え出した。バケツを持った二女の浪枝さん、三女の定子さん、二男の茂雄さんはただウロウロするばかりで何もできなかった。火の勢いはますます激しく燃え上り、このままでは危いと防空壕へ入った。
 近所の家はムギワラ屋根なので火の粉を払うのが精一杯だった。警防団第二分団の谷田部錦三さん達が駆け付け六郷用水の水をくみ上げて消火に当ったが、火の勢いはますます燃え盛り、全て焼けてしまった。目の前で小学校の校舎がゴウゴウと燃え広がり大きな火の粉がバラバラ飛んでくる。危険を感じ荷物を飯田善作さんの麦畑の中に置き、竹やぶの中へ逃け込んだ。せっかく持ち出した浪枝さんの荷物は火事場泥棒にとられたのか後で探しても見当らなかった。不思議にもだぐら塚の木は一本焼けただけだった。
 二十六日、焼け出されて何一つない朝、本家(谷田部良三さん)からおにぎりと漬物の炊き出しがあり、伯母(良三さんの母親フサさん)が布団を背負って来てくれた。近所に親戚が多かったので早速材料を持ってきて掘っ立て小屋を建てた。灰カキ(焼跡片付)には近所の人が手伝った。勝義さん夫婦と茂雄さんは小屋で、娘さんはいとこの家へ、叔父さん達は本家の世話になった。喜多見(トミさんの実家)や松原(大久保米蔵さん)では炊事ができるようになるまで炊き出しをした。
 近くに住んでいた荒木陸軍大将がお供を連れ、焼けた学校や農業会等を回った時に立寄った。
 戦後、たばこの配給があり、当時のたばこはキザミを目方で売り、各自で巻いて吸った。吸わない人も配給を買った。そのころ、新聞紙教科書(新聞紙の大きさの紙に表裏三十二頁分が刷ってあり、それを自分で切って製本する)を送って来たので各学校へ姉弟で売りに行った。
 娘さん達の一番悲しかったことは、学生時代の記念の物が全部焼けてしまったこと。特に卒業アルバム、遠足の時の写真、出征兵士の家へ回って来た写真屋さんが撮ってくれた家族の写真等一枚も残っていないこと。「今でも思い出す度に残念でたまりません。」と目を伏せた。
 精一さんがシベリアから焼けぼっくいで手紙を書いてきた事がある。野戦病院へ入ったので命拾いをし、帰国できたのだが、シベリアでの生活は口を閉ざして語らない。(塚原)