昭和二十年五月二十四日、昨夜の空襲で落とされた焼夷弾が岩戸の麦畑(岩戸南から喜多見にかけて)を焼いていた。黒煙が上っている畑には数十発の焼夷弾がめり込んでいて、油が吹き出て生ゴムが炎を発し、収穫真近な麦を焦がしていて異様な臭いがした。
 麦畑の真中に大型焼夷弾(集束型)の外側の鉄板が散乱し、その中に、真っ赤な筒で、先端に小さなプロペラが付いているもの(ちょうど、運動会のリレーの時のバトン位の筒)が落ちていた。岩戸の少年達の数人がその赤い筒を拾った。
 農家の庭の片隅て子ども達が集まり、赤い筒に付いているプロペラを回転させて遊んでいたが、しばらくしてプロペラが何回転かした時、大きな爆発音とともに破裂した。「ババーン。」という地面を揺るがす大音響とともに、手や顔に大けがをしてしまった。近所の人かリアカーに乗せて病院へ連れて行った。近所にいた小さい子も一緒に遊んでいたが、爆風で飛ばされたけれど傷を負わなかった。プロペラが付いた赤い筒は、集束型焼夷弾を空中で分解してバラバラにさせる信管(爆発をさせる装置)であった。
 その後、五月二十五日狛江国民学校が全焼した時、泉龍寺にも焼夷弾が落ちた。お寺の人や近所の人の協力で火事にならず消し止めた。その焼夷弾の中に不発弾もころがっていたそうである。
 後日、近所の子どもが、その焼夷弾をいたずらして遊んでいたところ不運にも、弾底に付いている信管に指が触れてしまい爆発した。爆発した音と子どもの悲鳴で、村役場にいた保健婦さんが駆け付け、止血の処理を手早くして、役場の担架に乗せて病院へ運んだという。
 狛江の空襲にも、このような子どもの犠牲もあり、戦争の傷跡を残した。(佐藤)