マリアナ基地を飛び立った空の要塞B29重爆撃機が、初めて東京の空に姿を現したのは、昭和十九年十一月一日のことだった。私は、その日のことを鮮明に記憶している。東の空を仰ぐと真っ白な煙をはいた一点の金属性の物体が、ダイヤモンドのようにキラキラ光って、ゆっくりと紺青の空を移動していく。高射砲の弾幕は次々空に浮いたが、おそらく見当外れの場所で、しかもそれは目標物よりもはるかに下の方だった。一機のB29が主として偵察の目的で侵入したと分かったのは、ずっと後のことである。この日のB29は、おそらく非常に精密な航空写真を写していたのだろう。そして、十一月ニ十四日、ついにB29は大挙して襲来、武蔵野にある中島飛行機工場を爆撃した。その後、夜間空襲のおり、東の空に小さな堤灯(ちょうちん)がユラユラ揺れ落ちるような、なんとも不思議な光景を見た。それか照明弾だったと後で分かった。さらに、ニ十年三月十日に東京大空襲を受け、四月の横浜、川崎方面が空襲の時は、南の空は赤インクをぶちまけたような色彩で覆われ不気味であった。その後というものは、戦争は日増しに激しくなり、空襲警報で防空壕に入る日々が続いた。
 忘れもしない二十年五月二十五日午後九時ごろだったと思う。空襲警報のサイレンがいつもよりけたたましく鳴った。この日はまだ肌寒い夜であった。家族は、両親、兄、義姉、姉、妹そして私の七人と、この四月の川崎の空襲で全焼してしまった母方の従姉妹が、出産を控え我が家に疎開していた。
 空襲警報が鳴ってすぐに、B29が堂々と上空より照明弾を落とし、まるで昼間のような明るさになった。父と兄は、火の粉を消すために屋根に登った。突然、屋根にいる父が私に「早く、川崎の従姉妹と妹を連れて逃げろ。」と叫んだ。私は、夢中で二人をかばいながら、ようやく麦畑(現在の東京都民銀行付近・東和泉一丁目)へ逃げこんだ。麦は穂を静かになびかせ、私達の恐怖心を和らげてくれた。この麦畑の中に小さくなって隠れていたが、頭上では、爆音をたてて大きなB29が飛んでいる。従姉妹が「ここでは危ないから、もっと安全な所に… 。」と言われ、B29が遠ざかるのを待って多摩川方面へ逃げたが、恐ろしさのためどこかどこやら分からないまま、たどり着いた所は一軒の農家だった。そこは同級生の市川さんの家であった。皆さんが温かく、優しく迎えてくださったのが本当に嬉しかった。
 警報解除になったので急いで家に帰ってみると、我が家は全焼、物置二棟が燃えくすぶっていた。私は、全身の力が抜け頭の中が真っ白になり、へナヘナと座り込んてしまい、しばらくはぼう然として立つこともできなかった。
 姉は、私達が避難している間に起こった我が家の惨事について、後日、涙ながら次のように述懐している。
 私達が避難した後、一機の飛行機が上空に飛来し、物すごい爆音と「サ、サ、サッ…。」という異様な音とともに焼夷弾をばらまき、落ちてくるところであった。その時、母と義姉は門前でうろうろしていたそうだ。そこへ、父と兄が屋根の上から「早く防空壕に入れ。」という大声で二人は防空壕へ入ってしまった。すると、直ぐ焼夷弾が防空壕を直撃・貫通する。義姉が先に入ったので、その眼前で焼夷弾がさく裂したそうだ。焼夷弾の油脂が顔について燃え、防空ずきんを被った頭は何ともなかったが、顔は墨を塗ったようてひどい変わりようだった。母は後から入ったので顔と手を火傷しただけだった。姉は瞬間的な出来事で防空壕まで走れずにいると、目の前四十センチ位の所に焼夷弾が落下した。もし、首を出していたら首ごと切り落とされ、生きてはいなかったと言っていた。当時庭は土だったので、焼夷弾が土に突きささった瞬間、爆発し火柱を吹上げ樫の木にかかり燃えたそうだ。
 防空壕から、母・義姉を救出し応急手当をする。姉、妹、私が付き添い夜明けを待った。本当に涙の枯れるほど悲しく、そして長い長い夜だった。義姉は、翌日病院に入院したものの、特効薬も痛み止めの注射もなく、「痛い、苦しい…。」と言い続け、六月七日天に召されていった。私も義姉の看病についていたが、その時の様子は筆舌に尽し難いものがあった。
 こんな平和な静かな村に、何でこんな恐ろしい惨事が、また、村の中でもなぜ十四、五軒だけ、こんな不幸に見舞われたのか… 。そして、私どもの家だけが死傷者を出したのだろうか。
 罹災後は、何が面白い大勢の人が見物に来る日々が続いた。この人達は、どんな気持ちで見ているのか、という強い憤りを持った。そんな私達は、着の身着のまま素足で焼け跡の片付けに懸命だった。敷地内に落ちた焼夷弾の殻が、リアカーに一杯四、五十本はあったと思う。
 真っ黒になって後片付けをしている私達に、見物人は誰一人として励まし、ねぎらいの声は掛けてくれなかった。戦争がいかに人々の心をすさませたか、ドン底生活の中で哀れさを痛感した。この気持ちは、罹災者の皆さんも同感だと思う。
 戦後五十年、平和だった一家はあの日より、曲折した人生へ出発した様に思えてならない…。戦後は本当に終わってはいないのではないか?
 でも、私達は、犠牲となった義姉の墓参を欠かしたことはない。今でも、あの悲惨だったあの日のことは、脳裏から離れず戦争はもう嫌だ。やってはいけないのだ。と強く念じ、今、筆をとっていても義姉の顔が浮かび涙が止まらない。
                             寄稿 平沼(旧姓三角)松子