教員住宅 木造平屋建の古い建物が焼けた学校の東側にあって、四世帯の人が住んでいた。村役場までは四分ぐらい、すぐ裏には小田急線か通っていて火の見やぐらもあった。校庭に大きな桜の木があったので、四月の開花ごろは花見もできた。
 この教員住宅に住んでいた大久保美智子さんは、焼けた当時のことを次のように語った。
 戦争当時、私は母や姉達と教員住宅に住んでいた。五月二十五日午後十一時ごろ(時間はよく覚えていない)空襲警報が発令された。いつものように学校の防空壕に避難したが、焼夷弾が落とされて学校が燃えはじめた。危険と思い着の身着のまま裸足で泉龍寺に逃げたが、逃げるとき足下にも焼夷弾が落ち、生きている気持はしなかった。この恐しさは今でも覚えている。
 泉龍寺には大勢の人が避難していてだれもが不安でいっぱいだった。空襲警報が解除になり帰ってみると家は跡かたもなく焼けていた。教員住宅全部が焼けたのだ。学校もない。ただぼう然としているところに親戚の大久保義一さんが荷車をもって迎えに来てくれたが、残っていたものは釜一つで、これを荷車にのせて義一さんの家に行った。

 新川さん 新川喜一さんは次のように語っている。
 私の家は学校の正門の前で、谷田部さんや三角さんと同じ時に焼けた。父は、昭和十六年に召集されたが、狛江駅てゆかたを着て電車に乗って行った姿を今でも覚えている。
 五月二十五日夜、「今夜もB29が来るネ。」と話しながら夕食が終わる。時間は覚えていないが母が学校が燃えているから逃けようと弟を背負い、姉と私の手を引き、荷物二つをもって外に出たが、私達を連れて歩くだけで精一杯で荷物は前の植木畑に置いて行った。私の家には防空壕がないので谷田部花屋の防空壕に入ることになっていた。この日も谷田部さんの防空壕に入った。入ると同時に入った方に焼夷弾が落ちたが、もう一か所出入口があったのでそこから外に出て多摩川の方に逃けた。防空壕には私達四人たけだった。多摩川には大勢の人がいた。どこを歩いたか覚えていないが、絹山ポンプ店裏の竹やぶにいるところを叔父が助けにきてくれた。この時家が焼けたことを聞かされたが、母は私達を連れて家の前に行き焼けた残骸を見て初めて本当だと思ったという。学校もなくお隣りの谷田部さんの家もなくなっていた。私達はこの日から立川の母の実家に移った。
 父は昭和二十三年にフィリピンから復員してきたが、家が戦争で焼けたことは知らなかったので、あまりにも変った我が家に声も出なかったという。子ども心に覚えていることは、避難する時に姉が必ず赤いリュックを背負っていたことだ。大切な物だ入っていたらしい。(石井)