軍国日本は強いのだ、戦争に負けない国と称して太平洋戦争開始後、銃後の護りは固く老若男女子どもまでが苦難にたえながら戦勝の報道に胸をはって喜んでいた。しかし昭和十七年四月、初めて米軍機が襲来してから本土も本格的な戦場となり、戦うため竹槍で訓練も行なわれた。その後重爆撃機B29は、日増に襲来が多くなり、夜の空襲時には爆弾や焼夷弾の投下で東京の空は赤く燃えていて不気味な毎日であった。
 二十年五月二十五日午後九時ごろ(よく記憶していない)、いつもと違う空襲警報にあわてて役場へ向う。職員は空襲警報が発令されたら必ず出勤せよと上司から命令が出ていた。外はきな臭く異様な気配がした。泉龍寺のところまで来たとき、役場の方が真っ赤に見えて足がすくんで歩けない。とても遠い距離に思えた。ついてみると役場は燃えていないが、隣の学校が炎上中だった。空襲を受けたのだ。
 役場と学校の間にコンクリート造りの倉庫かあったが、隣の二階建校舎が燃えているので、その炎は遠慮なく倉庫をあぶっている。この中には重要な書類が入っていたので、外に出したいのだが、中は猛烈な暑さで入ることができない。「水をかぶって入れ。」という声に全身に水をかぶった。手押しポンプの井戸水は出が悪く気持だけがあせった。書類を道路の向い側にある防空壕まで運んでゆく途中、目前に幾つもの焼夷弾が落ちてきた。その時警防団の人がさわらの垣根に押しこんでくれたので助かった。何回水をかぶったか、時間がどのくらいたっていたのか分からず気がついたときは東の空に朝日か昇るころで空襲警報も解除になっていた。思わず口にしたことは「恐ろしかった。」の一声だった。
 静かな小さな村にもB29は来たのだ。そして各所に無残な爪跡を残していったが、役場が燃えなかったことは直接焼夷弾が落ちなかったことと風向きもよかったためと思っている。村役場は学校の西隣りにあった。近くには当時かやぶき屋根の泉龍寺があり、焼夷弾が落ちたのだが無事だった。庭には大勢の人が避難していた。また弁財天池という清水の湧き出ているところもあって沢蟹やイモリが住んでいて夏は冷たく、冬は暖かく人々の生活の場にもなっていたのだがここも無事であった。
 役場はトタンぶきの古い建物で歩くとミシミシという音がした。役場は無事であったが思い出の多い学校が焼失したことは悲しい出来事だった。戦争とは無残なものである。その日のうちに仕事も平常にもどったが、空襲警報は頻繁に発令され、米軍機は大編隊で南の方から襲来し東京に向って行く。その度に書類をかかえて外に出るがどこに逃けたらよいのか分からず、ただ、米軍機の行く方向を見ているだけだった。
 先輩に聞いた話だが、役場の中に兵事係という係があって、担当者は三か月も泊り込み、家に帰るのは食事の時だけだったという。理由は召集令状が昼夜関係なく来るので、それを届けるためである。届ける方も受けとる人も複雑な心境であったという。
 空襲警報もますます多くなり、不安な毎日が続いたが、必ず勝つことを信じていた。八月十五日のちょうど昼食時、珍しく静かな日だった。村長から全職員集合の命令があって机の前に起立した。黒ずんた長方形のラジオが事務室に持ち込まれて正午の時報と同時と思ったが、天皇陛下の言葉が流れた。低く、重く、よく聞きとれず、内容も難しかったが、終戦の言葉だった。戦争に負けたのだ。なんの音もない静寂さに先程までのことがうそのようだと同時に裏切られた思いで一杯だった。
 戦後五十年、私は忘れることのできない思い出が数多くあるが、職場の中にこんな人がいた。その人は、今は亡くなられているが谷田部勝義さんという方で警防係の職にあった。焼夷弾によって自宅か全焼しているのに、職場を離れず自分の任務をしっかり守っていた。たばこの好きな無口なやさしい先輩だった。
 サイレンの音もない八月十五日の昼下り、近所の子ども達は安心して多摩川に遊びに行き楽しかったという。悪夢は消えたが、戦後の生活は食糧不足等大変な苦労をしていた。(石井)