戦中戦後の食糧事情

 昭和16年4月1日、米の配給制度が実施され、非農家では1人1日2合5勺の割り合いで米の配給を受けることになった。そして9月以後、砂糖や小麦粉、食用油、野菜、魚なども配給制になったが物が少ない。
 昭和16年12月8日には太平洋戦争勃発。以後次第に食糧事情が悪くなって、米の中に大豆やコウリャン、豆粕を混ぜるようになったり、遅配や欠配も起こって消費者を苦しめた。また、米の代用食としてサツマイモやジャガイモの配給もあった。
 一方農家の方も耕地面積に応じて収穫量が算出され、家族数に応じた保有米だけ残してあとは供出しなければならなかった。イモ類にも供出割当がある。
 また、若い男性はみな出征しているから田をすくような力仕事も、肥やし汲みも女性の仕事で代田橋まで車を引いて、し尿の汲み取りに行ったという。
 昭和20年8月15日は終戦の日。食糧事情は前にも増して悪くなり、その上物不足と戦時中の貨幣の乱発から激しいインフレーションに襲われて日に日に物価は上がる。軍需工場は閉鎖されて失業者が巷にあふれ、諸所に闇市が立ち、闇米が横行し、生活が苦しくなる。そのため昭和21年5月19日には米よこせメーデーが発生。狛江からも東京重機や国際電気の従業員が参加したという。戦時中あれだけ活躍した女性にも定職が少なく、戦争で夫を亡くした女性も針仕事や袋貼りなど内職をして細々と暮らしを立てていかなければならなかった。物がない耐乏生活といっても食料だけはなくては生きていかれない。やむにやまれず非農家では庭や空地を掘り返して家庭菜園にした。
 買い出しにも行った。当時の狛江は農村地帯だったから都心から買い出しに来る者が多かったが、狛江の人は狛江では顔見知りが多く、お互いに気を使うからと厚木や秦野の方まで行ったという。米など統制物資を持っていて警察官に見つかると没収されてしまう。だから子どもを連れて行き、子どもにも持たせたり、子どもが持っている姿を見せて警察官の目を和らげさせた人もいたという。
 そんな時代は過去のこと。今は食品ロスが問題になるほど食料不足の心配はない。しかし平成30年度の食料自給率は37%という。何かの事情で輸入が途絶えたらどうなるだろうか。
 食糧ではないが、昭和48年の暮れ、狛江市内の小・中学校のストーブを石炭から石油に変えた年、石油産油国の事情で石油の輸入ができなくなった。そのため行きつけのスタンド以外ではガソリンを入れてくれなくなり、危険を知りながら予備のガソリンをポリタンクに入れて自動車に乗せて遠出をしたり、ちり紙が買えなくて困ったことを忘れてはいけない。

 井上 孝
(狛江市文化財専門委員)