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語りつぐ戦争体験

東京発空襲のこと…当時の日記から
昭和十七年四月十八日 土曜日 晴
悪夢の五月二十五日夜半
昭和二十年五月二十五日の夜、それは狛江村に住む人々にとって悪夢の一夜であった。
猪方に火の手上がる
昭和二十年五月二十五日夜半、B29が狛江に焼夷弾の雨を降らせた。
上和泉の被害
みんなを防空壕から出した。もう、あたりは一面火の海だった。
国民学校炎上
毎日のように空襲警報が発令され米軍機が上空を通っていく。
だぐら本屋の被災
今の西河原公民館の先辺りで多摩川の水を引き入れた六郷用水は、灌漑(かんがい)用水として、いちょう通り、一の橋を通り、世田谷通りに沿って流れていた。
岩戸にも焼夷弾の雨が
五月二十五日の夜、岩戸橋付近(岩戸北三丁目)にもB29の焼夷弾が投下された。
私たちの戦争体験
太平洋戦争が終って五十年になる。
教員住宅と新川さん
教員住宅 木造平屋建の古い建物が焼けた学校の東側にあって、四世帯の人が住んでいた。
私の空襲体験
空の要塞B29重爆撃機が、初めて東京の空に姿を現したのは、昭和十九年十一月一日のことだった。
農業会の周辺も炎上
農協の前身である産業組合が今の場所にできると間もなく日中戦争が始まった。
村役場は燃えなかった
軍国日本は強いのだ、戦争に負けない国と称して太平洋戦争開始後、銃後の護りは固く老若男女子どもまでが苦難にたえながら戦勝の報道に胸をはって喜んでいた。
多摩川原と駒井の焼夷弾
多摩川の対岸から宿河原堰堤、橋本木工所のあたりまで火の海になった。
不発弾の犠牲
畑には数十発の焼夷弾がめり込んでいて、油が吹き出て生ゴムが炎を発し、収穫真近な麦を焦がしていて異様な臭いがした。