猪方村の名主重八のもとに、平井薫威という人物が滞在していました。平井と名主重八は、多摩川を称えるものが何もないのを嘆き、有志を募って、文化2年(1805)に玉川碑(万葉歌碑)を建碑しました。この碑文(『万葉集』巻14の東歌の一首)を揮毫したのは、老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信でした。
 さらに、平井と名主重八は、文政2年(1819)に江戸から芝居役者を呼び寄せ、多摩川の河原で歌舞伎を興行しました。しかし、関東取締出役の目にとまり、二人は捕縛されてしまいました。
 この二つの出来事は、平井薫威という人物を介して、狛江の人々が江戸の文化人等とネットワークを築いていたことを想像させます。

玉川碑(万葉歌碑)