「おいらの子どもの時分には、時計のないうちが普通だった」と、猪方の小川芳三さん(明治二十四年生)は話す。ニワトリは「時をふく」ので時間を知る目安になっていた。昔は、たいていの家でニワトリを飼っていて、トリの巣といって、土間の手の届く高さのところに、止まり木だとか籠が吊してあり、多くて十羽くらいのニワトリを飼っていたものだった。「一番トリが鳴いたから、もう少しだけ寝るべえや」などと言った。
 「ハチが鳴く」のを食事にする目安にもしたという話を、和泉の白井秀さん(明治二十六年生)から聞いた。ブンブン、ハチが鳴くと、朝のご飯だよとか、昼になったからハチが鳴いたよなどといわれたものだった。
 遠くから聞こえてくる寺の鐘が朝夕の時を告げ、正午のドンを合図に午前中の仕事を切り上げたりした。「ドンが鳴ったから、お昼だい」とか、深大寺の鐘は十一時半に鳴るので「早いけど昼にすべえ」などと言ったものである。皇居前で鳴らす空砲のドンの係だったという、駒井出身の近衛の兵隊もいた。
 時計というものを初めて買った経験話もいろいろあって、東京の方へ暮れに肥引きに行った人が、帰りに世田谷の烏山の醤油屋でくじをもらって時計を当て、だいじに持ち帰ったという話もある。また、初めて置き時計を買った人が、もったいないので押入れに入れてときどき見ていたという。時計の購入は、養蚕のための目覚ましが始まりだという家も少なくなかった。大正の末頃までに時計を買ったという家は多い。溝の口や、府中などの時計屋へ買いに行った。
 小足立の冨永武男家では、銀座の服部時計店が開店したとき(明治二十八年)に、先々代の銀之助さんが買ったと言い伝えている大きな柱時計を、終戦後しばらくの間まで使っていた。