昔は何をするのにも「みる人」にみてもらい、良し悪しを判断した人が少なくなかった。狛江では、「浜川さま」と「稲荷さま」という、みる人が知られていた。
 浜川さまといわれていたのは、小足立の栗山正利さんで、本名を仙蔵といい、太鼓をたたいて祈祷をしていたので、地元の人には「ドンドコ仙ちゃん」とも呼ばれていた。品川にある厄神(やくじん)様とも呼ぶ浜川神社の神職を兼務したこともある。屋敷の一角には、大宮の氷川神社から江戸末期に分霊した祭神(浜川神社と同じ須佐之男命)の社殿もあって、厄神様とか浜川様とか呼ばれる講社も結ばれていた。明治三十四年の講社記念碑には数百の講員とあり、『狛江村誌』(昭和十年)には講社員二百数十名とある。浜川様では、冬至祭りが盛んで、屋敷の入り口には夜店が出たこともある。この屋敷や社殿も、今は跡形もない。
 「浜川さま」の栗山正利さんは、ひげを生やしたりっぱな人で、昭和九年に亡くなると息子の正教さんがその後を継いだ。
 初代の「浜川さま」が多くの信者を集めていた明治二、三十年代から四十年代、岩戸の「稲荷さま」も評判が高かったという。「稲荷さま」は、岩戸の秋元家から曾我家に嫁いだ人で名をツルといい、娘の頃から、よくものの見える人であった。嫁入り後不思議な夢を見て、井伊掃部頭(かもんのかみ)ゆかりの稲荷と伝える伊井出森稲荷を祀(まつ)るようになり、稲荷におうかがいをたてて、人助けをするようになったという。伊井出森稲荷は曽我稲荷とか岩戸の稲荷様といわれ、霊験あらたかという評判をとった。ツルさんは亡くなる大正の初めの頃まで、「岩戸の稲荷さま」とか「稲荷さま」と呼ばれて、遠くからも信者を集めた。東村山には講社があって、三、四十人でやって来たこともあり、明治三十八年に上げた幟(のぼり)も残っていた。また、稲荷の社前に据えられたキツネの石像は、四谷の布袋(ほてい)屋呉服店が、明治四十二年に奉納したものである。