大正十二年(一九二三)九月一日、この日は八朔の節句であった。十一時五十八分、大きな地震が関東南部を襲った。関東大震災である。
 覚東の高木雄一さんは中学の始業式を終えて下校の途中であった。朝からの雨は上がって青空ものぞいた。金子(京王線の駅、今のつつじケ丘)から歩いて家が見えるところまで来たとき、ぐらっときた。傘を杖にして頑張ったがこらえきれない。草をつかんで寝転んでしまった。土が割れてもうもうと土煙が上がった。
 岩戸の秋元重光さんは妹さんと相之原(岩戸の八幡神社の東の小字)に桑摘みに行っていた。籠(かご)いっぱいになったので帰ろうとしたとたんに、川向こうからゴーッとえらい音がしてきた。同時に黒い煙がもくもくと舞い上がる。畑がゆれだし、籠を背負って歩くどころではなかった。よろける足で家にたどり着く。母親は必死になって傾いた蚕棚(こだな)を押さえ付けていた。蚕は上簇直前まで育っていた。
 多摩川では水面が盛り上がり、びっくりした魚が河原にとび上がって跳ねた。道路や水田ではあちこちで段差ができた。地下水を押し上げて、青い砂交じりの水が吹き出したところもある。土蔵の壁が崩れ落ちたりはしたが、倒壊した家は全村で一軒もなかった。炊事どきにもかかわらず出火もなく、「人畜死傷ナシ」の状況であった。
 余震が続くので、たいていの家では「安全地帯」といわれる竹やぶにかやむしろやござを敷いて蚊帳(かや)を吊り、何日かを過ごした。一方、二日以後、朝鮮人が襲ってくるという流言で、村中がパニック状態になった。自警団が組織され、伝家の宝刀や竹槍を持った村の人々が要所を固めた。村役場では急邊(きょ)、村内から米麦、野菜、味噌醤油などを大量に集め(九日)、虎ノ門の金刀比羅宮に設けられた被災者救護所に届けた(十一日)。こうした救護には青年団、消防組、在郷軍人会の人たちが献身的に活動したのである。