生活物資の配給は戦中・戦後隣組を通して一括して行われたが、それを分けるのもたいへんな仕事だった。公平にしようとしても、切り方一つで違いができる。同じ魚でも頭がいいか尾がいいか、太さが違えば長さも変えなければならない。同じ目方に切るのは不可能に近い。しかし物がないときだけに見る目は厳しい。十二、三軒でイモを分けるのに、組長さんに多い少ないと言って一時間半かかったという話がある。
 食用油の配給のときも、割当て量通りに計っていったら十五世帯分が十世帯でなくなってしまった。それもそのはず、まとめて計れば誤差が少ないだけでなく商人は損なく計るが、そこが素人の泣きどころである。要領が悪いからそれだけでも足りなくなるところを、大勢に分けるのだから目盛りに従えば従うほど狂いが大きくなってしまう。一度分けたものをまた元に戻しながら皆に分けた組長さんの苦労が忍ばれる。
 燃料不足も深刻だった。ガスも石油コンロもない時代だったから、薪、炭に頼るしかなかった。しかし屋敷林を持たない一般家庭では、わずかばかりの薪・炭の配給、それもなま乾きのはんの木ではどうにもならなかった。だからお風呂は焚けなかったし、出たばかりの籾殻用の竈(かまど)を買って、籾殻は俵で農家から分けてもらってご飯炊きをした。薪の一本も入れておけば、後は籾殻でなんとかご飯が炊けた。しかし籾殻用の竈が普及すると籾殻を手にいれることが難しくなったので、製材所に行って
おが屑をもらってきてご飯を炊いた。ときには硬いご飯や柔らかすぎるご飯が炊けることもあったが、それでも我慢した。
 中には厚木の方まで炭の買い出しに行った者もいる。しかし、炭でさえ大量に持ち歩くと取り締まり物資の対象になり、取り上げられる。そこでお店の人に頼んで少量ずつ分けて持ってきた人がいる。電車賃を考えると随分高い炭代になるが、これほどまでしなければ生活できない時代でもあった。