近代的な消防施設はなく、戸数、人口とも少なかった農村時代、若者だけが唯一の消防力だった。そこで狛江村消防組が結成され、各部落ごとに部(和泉は二つ)が設置されていた。各部はおよそ三十人から四十人が定員とされ、主として若者が充てられていたが、駒井のように人口少数のところでは若い後継者が少なく、いったん入ったら十年、十五年と続けなければならず、四十歳になっても替わりがいなければ抜けられないというところもあった。
 いざ火災となると各部落(旧村)に設置されている半鐘がけたたましく鳴りだし、部ごとに組員を集める。手こぎの消火ポンプをかついだり大八車に乗せ、竹梯子(ばしご)と鳶口(とびぐち)をもって火災現場に急行し水をかける。しかし茅葺き屋根の点在する当時の農村では、消防組が駆けつける前に多くの場合家は焼け落ちても、他への延焼の恐れはめったになかった。また、ポンプといっても今と違って近代的なポンプではなく、消火栓の完備していない時代だったから、小さな箱型の手押しポンプを水の中に沈めて棒を押したり、ポンプの箱の中にバケツで汲んできた水を入れたり、その苦労はたいへんなものだった。
 また、今でいう消防査察も消防組の仕事だった。毎年冬の初めになると各戸をまわりながら危険箇所を指摘したり、火の用心を啓発して歩いた。しかし近代的消防施設はなく、他への延焼もあまりない時代だったから、村外の火災に応援に行ったり、応援に来てもらうこともなかった。
 戦時中は、消火活動のほか、空襲に対する備えも加わったので、昭和十四年には警防団に組織替えして、防空演習や救護訓練なども行うようになった。だから各戸に鳶口、火はたき、防火用水を用意して焼夷弾に備えさせたり、バケツリレーや防空壕掘り、爆撃された時の対応なども仕事になった。そして、消防団といわれるようになったのは戦後のことである。