昭和54年、小田急線の立体化を考える懇談会で、建設省から「鉄道の立体化というのは、まちづくりがあって初めてなる」との意見が出された。そのために小田急線立体化事業とほぼ足並みを揃えて、狛江駅北口再開発計画が進められることとなる。
 狛江駅の南口は、44年に駅への取り付け道路と広場が整備されていたが、北口については、都市計画道路の計画があっただけで整備がされていなかったので、まちづくりという面では、遅れをとっていた。
 56年に狛江駅北口地区市街地再開発等調査(A調査)を実施し、同8月に付近住民を集めて調査結果の説明会を開催したが、具体的な計画もなくて説明会になるかと住民の反応は冷ややかなものであった。
 57年に同じく調査(B調査)を実施し、2つの調査の結果をもとにモデル計画案を各権利者をはじめ付近住民に提示し、60年10月まで計9回にわたる話し合いをもったが、住民の反対の意思は強く、結局、市はその案を取り下げることとなった。
 60年11月、「狛江駅北口問題を考える市民の会」が組織され、市民の考える計画案づくりがスタートした。市がオブザーバーとなり、自然保護等、市民広場、道路交通、公共施設、商業消費者、地区計画、事業費等について、61年10月から活動を開始した景観・デザイン等の7つの分科会がそれぞれの視点から検討を重ねた。
 61年5月、市民の会は、スタートから69回にわたる話し合いの結果、第一次報告書をまとめ、市長へ提出した。この報告書を受け、市としては市議会駅広整備特別委員会、議員全員協議会に報告した結果、同月末に骨格案としての狛江駅北口地区整備基本計画案をまとめた。
 ほぼ時を同じくして、駅北口の屋敷森について自然公園とする陳情が市議会に提出された。これは、再開発事業に併せて、元和泉1丁目にある元陸軍大将の荒木邸の森と泉竜寺を中心とする緑の地域を自然公園として残そうというものである。
 荒木邸は、昭和9年に料理屋があったところを、時の大将が買い取ったものといわれ、庭には自然林がそのまま残されているオアシスである。
 都に緑地保全地区として指定するよう要請し、62年8月、「狛江弁財天池緑地保全地区」として都内で6番目の緑地保全指定を受けた。
 これにより、この緑地保全地区を取り込んだ北口地区市街地整備の骨格が固まり、63年3月、事業の基本計画が策定され、実現に向けて地権者等の調整が進められている。
 この事業が完了すると、全国でも珍しい駅前の一等地に自然公園を持つ駅前広場が完成し、市の表玄関として、また中心地区のとして生まれ変わることとなる。