昭和40年代の高度経済成長期は、狛江市もご多分にもれず人口急増の時期で、市民相互の連帯感や郷土意識のあり方に問題を投げかけていた。
 52年に、人と人との連帯感を助長することを目的として「市民の手による市民のためのあたらしいふるさと作り」をめざして、第1回「狛江市民まつり」は「ふれあう心で豊かなまち」をキャッチフレーズにこの年に竣工した市民センターのお披露目も兼ねて開催された。会場は、旧市庁舎広場、市民センター、市庁舎周辺民有地、旧第一小学校校舎である。
 初めての取り組みなので、すべての催しが、ゼロからの出発である。それぞれが考え、知恵を出し合い、多彩なものを手作りで行った。
 地域での連帯感、郷士意識を助長するためのパレードには、市民団体を先頭に、各地域のみこし、はやし、山車も参加した。
 第2回「市民まつり」からは、36年から行われていた文化祭も加わり、産業祭、農業祭、文化祭を一つとして行うようになり、現在もこの形で続いている。
 市民まつりの会場は、その年により市役所周辺・第一小学校(旧、現)・市民センター周辺や、福祉会館(西河原公民館)・第八小学校・西河原公園周辺と変わっているが、「まつり」の目的である「人と人との連帯感の助長」、キャッチフレーズの「ふれあう心で豊かなまち」は普遍である。
 第3回目からは、より市民参加で実施するために各団体および市民からなる企画委員会を組織した。
 企画委員は、半年に及ぶ長い期間、それこそ深夜に及ぶこともある裏方の作業を率先して行う実戦部隊で、毎回新しい多くのアイデアを生み出している。
 第一小学校プールでの魚のつかみ取りや福祉会館(西河原公民館)ホールで行われたロックフェスティバルの前夜祭、第4回の多摩川五本松での富士見茶屋や富士見の渡し舟は、NHKテレビでも紹介された。
 第5回では、泉竜寺境内での、わんぱく相撲・武道演武、弁財天池での茶屋や、国際障害者年によせて中央ステージでの手話通訳、パレードに、車椅子利用者の参加も試みた。
 第6回では、ミス市民まつりコンテスト、第10回の小田急バスの協力による花バスの運行など新しい催しを試みた。
 毎回、市民まつりに関係する役員は約600人、出店、出演等で携わる人員を含めると約2,000人に及ぶ。屋外での催しが中心のため、一番心配されるのが天候である。54年11月4日(第3回)、午前9時頃から降り出した雨は、ちょうどパレードの出発時、本降りとなり、旧一小に集合した約1,700人は、中央会場の八小へ向けて隊列を整えたところであった。参加、不参加を各団体の責任者にゆだねたが、3分の2の団体が決行を申し出、予定どおりのパレードとなった。降りしきる雨の中、力強い鼓笛の音が町中に鳴り響いた。八小に到着した時、子どもたちは上から下までズブ濡れであったが、鼓笛の音はやむことはなかった。
 
その後も第6、7回も雨にたたられ、苦渋の体験となった。まつりが始まる前の説明会やパートの実行委員会で雨天時の対応をせまられるが、「半年もかけて準備をしてきて、雨などに降られてたまるものですか」と答えながら、晴天を願ってきた。
 まつりの反省会では、「市民まつりとは何だろう」という疑問や、理念がないという批判もあり、開催が危ぶまれる時期もあったが、現在は、7万余市民の中に定着した行事となっている。
 役員や企画委員の中には、長年この祭りに携わっている人もおり、来年は卒業するからよろしくと言っていた人たちが、その時期になると今年はどうするのと気もそぞろになって参加してくる。こうしたまつり好きや会場付近の住民、警備に携わる人々など大勢の協力がこの市民まつりを支えている。