狛江市の人口急増の中心は昭和33~44年にかけてである。宅地開発が第2次ベビーブームによる子どもたちの小学校への入学時期とも重なり、増加する児童・生徒に対応するための教室確保に苦労を重ねた。
 小学校の児童の急増は、38年から始まり52年までの15年間続いた。38年の児童総数2,286人(52学級)が、52年には7,171人(191学級)と3倍にも達した。
 この間、特に増えたのは、多摩川住宅と都営狛江アパートが建設された41~44年で、毎年1,2割も増え続けていた。
 児童の急増時は、各校とも毎年のように学級数が増えるため、関係者は普通教室の確保に悩んでいた。急場しのぎに特別教室の普通教室への転用や仮設のプレハブ校舎の建設、既存校舎の増築などで対応したが、それでも間に合わず、41~50年にかけての10年間で、小学校を5校新設した。
児童急増があったのは、二小から五小の4校で、各校とも一時児童数1,000人を超える大規模校となった。特に二小では40年に1,056人(26学級)、47年には1,381人(35学級)となり、その後、54年まで1,000人を超えていた。不足する校舎の対応は、37年と39年に増築し、44年に木造校舎の改築と併せ増築をしたが、45~47年にはプレハブ校舎による一時しのぎを余儀なくされた。
 二小の学区は団地建設の影響もあって、同学校区から新設校が3校も生まれている。41年に四小が、43年に五小が(一部一小を含む)、48年に七小が新設され、その都度、学区変更が行われた。
 三小は、43年に1,000人を超え、45年には1,209人(31学級)となり、49年まで1,000人を超す状態であったため、同校も一時増築とプレハブ校舎で対応したが、46年に六小を新設し、学区を一部分離した。
 四小は当初、12学級で開校したが、多摩川団地内にあり、同団地内の児童が増える時期でもあったため、開校の翌年には教室が不足し、増築で対処したが、その後も児童が増え続けたため、44年にプレハブ校舎を建設せざるを得なくなった。同校が1,000人を超えたのは47~49年で、ピークは49年の1,257人(31学級)。このため、八小を新設し、学区を一部分離した(一小の一部を含む)。
 中学校の生徒の急増は、42年から始まる。当時の生徒数は2校で、1,114人(28学級)であったが、55年には2,966人(72学級)と、2.7倍にまでふくれあがっている。中でも、急増時期は42~47年で毎年1割以上も増加した。
 一中が1,000人を超えたのは、47年の1,093人(27学級)で、翌年には三中を新設している。また、ピーク時の54年には1,265人(30学級)となり、これを解消するために四中を新設している。新設で対処する前の44~47年の間はプレハブ校舎で急場をしのいでいた。
 新設校は、41年から55年の間に小・中学校を合わせると8校も建設され、用地の取得に要した費用も含めると、この建設費に61億6,000万円が投入されている。その大半(43意円)は起債でまかなったが、この頃は、財政の大変苦しい中で、過大規模校の解消やプレハブ校舎の解消が叫ばれ、市予算は教育費だけが突出していた。
 一時、プレハブ校舎で対応したのは国庫補助金を得るために必要面積基準が生じるまでの措置で、仮設校舎として建設していた。
 学校の新設については多くの苦労話がある。
 当時の用地取得では、町長を先頭に地元の町議会議員や有力者が率先して、候補地の選定から代替地の確保、価格の交渉まで早朝から深夜まで奔走し、買収費も当時の市場価格より相当安い価格でご協力をいただいた。関係者のご尽力には頭を下げずにはいられない。
 五小の新設では、開校予定の43年4月に、校舎の完成がむずかしくなった。当時の石井三四郎町長の心労は大変なものだったにちがいない。同校の用地買収にも、町村長会会長を務めるなど多忙の中を、先頭に立ち地主との交渉にあたったにもかかわらず、新設の小学校が4月1日に完成していないとなると事は重大である。悪いことに建設会社の不手際で遅れたのにもかかわらず、町の不手際かのように新聞で報道されてしまった。結局、同校は、43年5月に完成した。新校舎での授業は6月1日からとなったが、石井町長はこれを気にされながら、5月28日に他界された。
 新設枝が建設されるたびに通学区域の変更が行われた。いつの場合も境界をどこで切るかが担当者の苦労するところであった。市内の児童・生徒数、学級数の将来推計を立てて、母体校が将来も過大にならないよう配慮し、変更案を何通りも作り父母の説明会に望んだ。新設校への転校は、プレハブ校舎等からの脱却という点では喜ばれたが、先生や友だちと分かれることなどには抵抗があった。
 50年4月、八小の新設によって四小の過大は解消されたが、そのときすでに五小は1,132人・30学級(保有教室28)で校庭にはプレハブ校舎が建ち、五小の父母を中心に過大解消のため、(仮)九小の用地取得の請願が議会に提出され採択された。50年当時では、児童・生徒が減っていくことなど想像もつかなかったが、オイルショックを契機に狛江市の人口増は微増に転じ、出生児数は49年初めて減少した。そして54年度以降は狛江市の児童総数は漸減していくと推計されたので新設校によらないで通学区域の変更で切り抜けることにした。五小学区の和泉本町1丁目と岩戸北1丁目を一小に移すが、全学年が移るとー小自体がパンクしてしまうので53年4月入学の新1年生から変更する案であった。
 52年7月16日から学区変更の説明会を開いた。父母からは「公立学校で兄弟姉妹が別々の学校にいくことになる前代未聞の学区変更」と反対されたが、将来の児童数の減少を訴え協力を求めた。妥協案として3年生以下の兄弟姉妹は一小への転校を認めざるを得なかった。50数人が五小から一小への転校を希望していたので、一小での受入態勢を整えたが、4月の新学期に3年生以下で転校した児童は1人であった。この学区が完全に一小学区になったのは58年度である。
 56年4月から実施した一小の通学区域の変更は、岩戸北4丁目(岩戸北B地 区)を三小へ、東和泉3丁目(南下地区)を六小へ、東和泉4丁目(北下地区)を八小へ移す計画なので市内4小学校に影響するものであった。一小周辺に高層住宅の建設が相次ぎ児童数が増加していたし、この3地域の児童は電車通学をしていたので適正な通学区域の編成が必要であった。
 55年9月13日、第1回の父母説明会を体育館で開いた。3日後の16日に署名簿とともに反対の要望書が提出され、12月まで9回の会合が持たれた。翌年1月、一部の父母との合意のないまま対象者全員に「指定校変更通知」を郵送した。父母が不満を残しながらも話し合いを終えたのは3月10日であった。