都営狛江アパートの所在地は、以前は「国際電気」という会社の敷地であった。
 ところがこの会社が経営上の方針で、西多摩郡羽村町(現:羽村市)へ移転することとなり、その跡地を東京都住宅局が買収し、住宅団地が建設されたのである。総戸数1,746戸、5階建てで全世帯が入居したのは、昭和43年のことである。
 この入居と少し前に完成した多摩川住宅と合わせると、狛江町の人口はいっきょに増え、学校、保育園の整備に追われることとなった。
 当時は、都営住宅団地建設による地元市町村への財政援助措置も、現在ほど十分でなかったが、藤塚保育園の建設のほか、生徒の急増対策として、第二中学校の用地取得費の一部を住宅局が貸してくれることになった。これは、都でも初めての制度化で、市と都の担当者が書類の様式から相談し、苦労しながら作り上げ、1億円の資金が導入され、先祖から受け継いできた美田を学校建設のために提供された地主さんたちへの支払いの一部に充てられた。
 その後、下水道の完成により不用となった汚水処理場跡地に上和泉地域センターが建ち、地域の人々のコミュニティ活動の場となり、今に至っている。
 入居以来20余年を経て、当時団地で誕生した赤ちゃんも立派に成人し、工場があった頃、グランドの周辺に植えられていたサクラの並木は今も残り、春には団地内で見事な花を咲かせているが、藤塚古墳は市立保育園にその名をとどめているだけになった。