昭和30年代半ばから、住宅建設の進行で、庭園樹や街路樹の需要力、激増し、農家の畑先に植えてあった植木は住宅の庭に植え込まれるなど、各農家は盛んに苗木を仕入れては植えつけ、また挿木など増殖に熱を入れていた。
 農協青壮年部でも、共同仕入れを続けるなど、植木栽培は40年代に入って、さらに盛んになり、緑化の奨励とあいまって需要は好調であったが、次第に生産が過剰になった。一方で、地価の高騰による宅地の狭小化や景気の後退によって、その荷動きが停滞し、植木栽培の熱は一部の生産者は別として次第に冷えていった。
 その後、集合住宅の増加などで花卉の需要が高まり始めた。
 狛江における花卉栽培は、戦前より今の東野川で大場さんが洋ランづくり、金沢さんが山草や草花づくりを、狭い農地に有効な施設をつくって栽培していた。特に大場さんの洋ランづくりは業界においても高く評価されていた。
 一般の農家で花卉栽培が本格化したのは、44年に駒井の間鍋さんが手掛けたバラ栽培が初めてである。当初の技術は多摩川のすぐ下流の世田谷区宇奈根から導入されてものと思われるが、その研究熱心もあって、市場価格もよく、東京都の品評会でも農林大臣賞をはじめ多くの賞を得ている。
 続いて、50年頃に、学業を終えて川崎市の花卉づくりの先進農家に住み込んで修行してきた小町新一さんと冨永和身さんが、本格的な温室をつくって鉢花づくりを始め、シクラメンを主体とする鉢花づくりに成功している。
 また同じ頃から、駒井の高橋清治さんも完備した温室を設置して洋ラン栽培に取り組み、年ごとにその実績をを上げている。
 以上、4人と前述した大場ラン園のご子息の5人が施設園芸研究家会をつくって、ますます高度の花卉栽培の研究を進めながら、農業後継者としての実績を高めつつあり、都市農業の今後に多くの期待を集めている。
 都市化の中て狭い農地を活用し、地域住民に喜ばれ、しかも高い収益をあげることができる花卉園芸は、今後もますます活況を呈していくことであろう。