狛江市内には、古代豪族の墳墓である古墳が数多くあり、狛江古墳群と総称されており、都内でも有数の古墳群である。
 これらの古墳は、江戸時代後期の書物「新編武蔵風土記稿」等に見られ、古くからその存在が知られていたが、その内容はほとんど不明であった。
 同古墳群中最大級の規模を誇る、亀塚古墳の発掘調査が実施されたのは、戦後間もない昭和26年6月のことである。
 狛江で始めての古墳の発掘ということで、町民の関心も高まったが、それにもまして話題を呼んだのは、この古墳の中に遺骸とともに埋葬されていた数多くの豪華な副葬品の発見だった。なかでも、「神人歌舞画像鏡」と呼ばれる中国製の鏡と、朝鮮半島高句麗の古墳壁画に似た、人物、龍、キリンの図像が彫刻された金銅製毛彫金具は、ひときわ目を引くものであった。
 発掘調査を指導した国学院大学大場磐雄教授は、これらの副葬品等から考えて、亀塚古墳の被葬者を渡来系の氏族とする学説を提ロ昌した。
 その後も狛江古墳群の調査が進むにつれて、同古墳群の出現時期が5世紀後半で、周辺地域のものよりかなり遅いことや、比較的短期間に造営されたと思われることなどの特殊性が指摘され、「コマエ」の地名が高麗(コマ)と類似することもあって、狛江古墳群を渡来系の集団の古墳群とする学説が広く支持されてきた。
 ところが、62、63年に、小田急線狛江駅北口一帯の再開発区域内にある旧第一小学校跡地(弁財天池道跡)の発掘調査によって、これまでの学説は覆された。
 
同遺跡からは柄鏡形敷石住居跡をはじめとする、数多くの竪穴式住居跡のほか、当初予想だにしなかった、弥生時代末の方形周溝墓という豪族の墳墓と3基の古墳が検出された。3基の古墳のうち最も規模の大きい1号墳は、これまで市内で確認されていたどの古墳よりも古い、5世紀前半のものであり、方形周溝墓はこれよりさらに古い3世紀末のものであった。
 これによって狛江古墳群の出現時期は、これまで考えられていたより約半世紀ほど古いことが削明し、さらに古い弥生時代末の豪族の存在も明らかになった。
 畿内地方においても一般に渡来人移住の痕跡が認められるようになるのは、5世紀末と考えられるため、狛江古墳群出現時期に東国のこの地に渡来人が来たことは考えにくく、まして古墳群を造営した可能性は皆無に等しいわけである。
 このようにこの30余年の間に、狛江古墳群の調査は飛躍的に進み、それに伴って同古墳群の性格も徐々に解明されようとしている。