昭和47年3月末、現在の東和泉1丁目クレスト狛江マンションと狛江市農協経済センターのところにあった狛江青果市場が閉場された。
 戦時中、通称銀行町の西北部、現在の越後屋豆腐店の奥あたりに一時、地元野菜を集散する青果市場があったが、戦時統制の強化で閉場となった。しかし、終戦後は物価統制令の解除により、新たに地元の有識者や青果業者の先覚者たちの出資で前記の場所に市場が開設された。
 その後、東京荏原青果株式会社二の子会社の南部青果株式会社の経営に移り、敷地も拡張され、施設も整って集まる荷も多くなった。地元をはじめ近隣のの地域で生産された野菜に加えて、地域の消費人口が増えるにつれて、荏原の本場からも相当量の野菜や果物等が入荷し、買出し人も地元の業者ばかりでなく、区内からも多くの業者が参加してなかなかの活況を呈していた。
 当時の狛江はまだ、都市近郊の野菜生産地帯として農地も多く、農家の野菜生産に対する意欲も旺盛で、個人出荷ながら各農家がその優品の生産を競い合っていた時代でもあった。
 また同時期、岩戸の和泉に近い都道沿いに丸岩青果市場が開設されて、同じ夕方のセリ市を競い合っていた。
 しかしながら、流通の近代化、多量化に伴い青果市場も次第に統合されていき、世田谷区砧町に大規模な世田谷青果市場が開設されるに及び、そちらに統合のため、両市場の閉場に至った。
 以来、農家はその生産した野菜を世田谷市場、調布の市場、川崎市北部市場等に分散して出荷するようになったが、宅地化による農地の減少、植木栽培への転換、賃貸住宅など不動産収入の増収により営農への依存度が低下するなど、時代の変遷の結果、農業経営も小規模化している。