狛江町のごみ処理は、昭和34年当時 は、日雇いの臨時織員が3人で、自転車にリヤカーを連結させて、各家庭の前の道路端に置いてあるコンクリート製のごみ箱から収集していた。
 リヤカーに積まれたごみは、第2次世界大戦の開戦前頃まで行われていた砂利採取跡の池や、堆肥づくりのための原材料として希望する農家の畑の一隅に積み上げるなどの方法で処分していた。
 当時、ごみ処理を町に依頼していた家庭は約100戸。町では「ごみ処理手数料」として一般家庭からは1か月250〜350円程度を徴収していた。
 この頃の狛江町は、首都東京の郊外として、農地が次々と宅地化され人口は増加の一途をたどっていた。
 ごみ処理の方法としては、自分の家から出るごみを庭木の肥料などとして埋めたり、燃えるものは家庭で燃やしたりしていたが、その煙が近所迷惑になることから自家処理ができない環境になりつつあった。このような情況に加え、新たに移り住んできた家庭から、町へごみ処理を委託する声が急増した。
 そのために、砂利採取跡地も満ぱいになり、その跡に家が建つという状況でますますごみの排出量は増大していった。
 担当者はごみの終末処理場を、といっても実態はごみ捨て場を求めて、町中を徘徊。適地としては人目に触れないところで、住宅からも離れ、永続性があることが要求されていた。
 35年に入った頃、当時の小足立に適した山林があり、所有者のご理解により、ごみを埋めさせてもらえることになった。
 しかし、このときの安堵も束の間で、ハエや悪臭の発生に悩まされ、リヤカー1台ごとに消毒を行い、1日の終わりには全面に覆土をしてから引き上げる毎日であった。付近住民からの苦情や地主さんの返還要求、やがて満ぱいとなることも明らかだったので、またもや適地を捜して、町田市の方まで足を運んだ。
 そうした中、稲城町の山林所有者と話がまとまり、ごみを捨てさせてもらうことになり、早速、そのために4トンダンプトラックを購入した。町役場の敷地の一隅にごみの中継所を設け、リヤカーからダンプカーに積み替えて、稲城町の山林に運んだ。ダンプカーは田んぽや梨畑すれすれを、また鶏小屋の軒先をこするような細い道を通り抜けていった。ダンプカーが通るたびに、鶏舎内の鶏が驚いて飛び上がり、卵が割れてしまったり、鶏が死んでしまったりして、飼い主からずいぶん苦情を言われた。また、ダンプカーが道から落ち、救援隊を編成して引き上げにいったこともあった。
 このようなこともあって、稲城町の山林を中止し、浦和市の河川敷で終末処理をすることになった。浦和までとなると、1日に1往復がやっとの距離だったので、2トントラックを1台買いたし、2台で対応した。しかし、それでも間に合わず、早朝に出勤して、2往復という無茶を繰り返した。
 この浦和市の処理場は、非公式なもので、すぐに地元自治体から退去勧告を受け、次に、川崎市の溝の口にある民間の残土捨て場と契約をして、処分に困ったごみを捨てにいった。
 38年9月、狛江町と多摩町とで一部事務組合を設立、「狛江多摩衛生組合」の発足となるまで、ごみの捨て場捜しの苦労は続いた。39年8月には、この組合は稲城町も加入し、「多摩川衛生組合」となった。